観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

vanish!

きっかけの具体的なエピソードは忘れたし、中学生の頃か高校生の頃かも思い出せないけど、vanishという英単語が家庭内で流行ったことがあった。
家庭内、って書いたけどたぶん正確には母と私の間で。

ここにあるはずのものが見つからない、どうして?と誰かがなにかを探している場面に出くわしたとき、横から茶々を入れるようにすこし甲高めの声で「vanish!」と言うのである。(※イメージは教育テレビでやっていたミッフィーのアニメの声で…どういうこと?)
聞いてる方はそれだけで何が面白いんだかさっぱりわからないと思うのだが、本人たちにはなぜだか面白かったのだ。
あくまで他人事っぽい態度というか、勝手に消えて無くなるはずのないものに対して「vanish!」と言う、ある種の無責任さみたいなものが面白かった。そもそも、ものが見つからない原因である「散らかったリビング」を創出している諸悪の根源の過半を占める存在こそが私だったので、自分のふるまいは棚に上げて、他人事ぶっているところにおかしみが生まれる、というような仕組み。
私がおそらく英単語を覚えようとしたタイミングでふと思いついて言ったのを母が面白がって、しばらくのあいだ定番になっていた。今でも言ったら家庭内ギャグのひとつとして通じる気がする。今度やってみようかな。


この「跡形もなく消えて無くなる」というのがわりと好きで、たぶん私にはそこそこ強めのリセット願望がある。

社会人になって今の会社が4社目なのだけど、転職する時に独特の「今まで必死に覚えてきたあれもこれも、ぜーーーんぶ!ぜんぶ忘れていい!」というあの爽快感は、ちょっと病みつきになる。
定期テストが終わったあとの解放感のスペシャル版って感じで、転職によって経験するたびに心底せいせいした。
別に何もかもが嫌になって辞めたわけではなかったけど、あほらしいな〜と感じるような組織内の仕組みも、無駄の権化やろ!と思うような馬鹿げた業務手順も、気を遣ったり遣わなかったりしてきた人間関係もなにもかも、全部!忘れてしまっていい、というのはものすごく魅力的だ。その分自分の脳内の記憶領域をガバッと空けていいのだから。
この自由の強烈さは本当にクラクラするほど眩しくて、特に前職を辞めたあとのそれは、かなりビビットだった。なんせ、不可能な覚えゲーかよ!と叫びたくなるほどに摩訶不思議で複雑怪奇に発達した手続きの中で、日々どうにか息をしている(割に給料の安い)業務内容だったので。

人間関係に対しても割とそんなところがある。本当に特別親しい人をのぞいて、ある期間・ある場所で繋がった人間関係をうまく維持することが昔からできなくて、そこに自分がいた痕跡ごと消して次に行ってしまうような癖があるし、なんだかその場から自分の姿が消えたことに妙にホッとしたりしてしまう。なんでそんな消えたがる?忍びの者か?
でもそんなことを言う割に、辞めた後に前の職場の人と飲みに行く機会は過去全ての職場で複数回設けてもらったので、たぶん周りの人たちが優しいのだと思います(ここまで書いてすこし落ち込みました)。


別に何に気兼ねがあるわけでも無いのだけど、Twitterになにかを書こうとしたとき、「これ別に大勢の人に見られる場所で言う必要、全く無いな…?」みたいな気持ちがふつふつと湧く瞬間が増えて、インターネット上の人格を消してしまいたい衝動に駆られる瞬間が、ここ最近で何度かあった。

と言いつつ、全く同じ行為は過去に一度経験済みなので(数年動かしていた趣味のアカウントをいきなり消してブログも非公開にしたことがある)、実行したらどうなるのかも想像はつくのでもうそれだけで満足しているところがあるんだけど、このリセット願望は一体なんなんだろうな、と思う。
今あるアカウントはまず消さないし、仕事を辞める予定も全く無いのですけど。
「vanish!」というひとことと共に、今あるものを綺麗さっぱり消し去ってしまう夢想は、やっぱりなんともいえずに蠱惑的。


…と、つらつらと書いてみたけど、今の私のこの精神状態はやっぱり、言葉にならない閉塞感に長いこと取り巻かれているからだろうなー、と思う。
物理的には比較的、いやだいぶ自由に身動き取れている方でも、がんじがらめになって何かしらの不安の影を感じ続けている気持ちの側面においては、かなり影響はあるのだろうな。
コロナ禍、まじでいい加減vanishしてくれんかな。

意外なものに出会わないと元気をなくす生き物

この元気の出なさは一体なんなんだろう、と本気で心配になるくらい、実はここ最近のわたし、あまり元気がなかった。(あの行動量、全然そうは見えんよというツッコミを自分で入れつつも)

なんでだろう…と色々考えてみていたのだけど、
たぶん「予想範囲外のことが起きない」ことによるルーティン疲れだったのでは?という気がしてきた。


昨年春からの在宅勤務生活もかなり長くなってきて、そうなるとどう頑張っても、日常の風景および行動範囲はかなり限定される。
家が駅から遠い勢としては在宅勤務は正直なところありがたいし、どちらかというとひとりで黙々と仕事するのはさほど苦にならない方だ。なのでむしろ家で仕事できてラッキー♪と気楽に構えていたのだったが、
だとしてもこれだけ同じ生活がずっと続くと、主に気分の切り替えのできなさで、さすがに難しい局面も出てくるようにもなった。

でも言うて、あんた土日は趣味でそこそこ外出してますやんけとも思うのだけど、
それも全て自分であらかじめ「好んで選んだもの」だけをせっせと効率的に摂取しに行っているわけなので、
予想の範疇にない出来事には、ほぼ出くわさない感じになってるんだよね。
友達と会ってお茶&ご飯も、本当に長いことやっていないし…?


ここ2週間くらい、PMSでもないのにやたら塞ぎ込みやすいなというのが気にかかって、なんでだろうなーと思ってたんだけど、
さっき急にお試し加入してみたKindle Unlimitedで美容雑誌を2冊ほど読んでいたら、なぜかわりと元気が出た、ような気がした。


たぶん、久しぶりにがっつり触れた「美容」に関する情報が新鮮で、それが楽しかったんだろうなと思う。
例えば、情報収集という点ではわたしは日々飽きるほどTwitterを見ているけれど、フォローしている範囲はごく限られるし、基本的にはいい意味でとても安定したタイムラインなので、マンネリ感もあるっちゃある。
そこに対して、なんでもいいから新しいもの、だけどそこまでごっそりエネルギーを持っていかれる心配がない適度に軽いなにかに触れることが、ちょうど良い気分転換になったのかもしれない。
スキンケアもコスメも、もともと色々見るのは好きだし楽しいし。
気になってたあのクレンジングやっぱり試してみようとか、クリスマスコフレはあのブランドが買えたらいいなとか、割にうきうきした気持ちになることができた。


大袈裟だけど、無意識のうちに限られていた思考回路の中に、ぽんと新しい要素が入ってくることの劇的な効果を感じた。
それこそ、日々通勤していれば、周りのお客さんの服装で季節を感じたり、中吊り広告で流行りを知ったりすることもあるわけで。
そういう外的刺激が極限まで薄れた今の状況は、自分の中の「当たり前」だけがいつのまにか強固に定着してしまう、そんな側面もあるのかもしれない。
危ういほどの意識の凝り固まり方と、安心出来る閉鎖空間だけで過ごす居心地の良さは、たぶんトレードオフなんじゃないだろうか。


仕事で役に立つかしらと言う気持ちが半分、活字中毒のあまりTwitterに張り付いてしまうのをなんとかしようと思ったのが半分、という感じで思いついたUnlimitedだけど、
それこそ漫画だと「かげきしょうじょ!」が期間限定で読めたりするらしい。
たまにはツイ廃をほどほどにして、1ヶ月で色々読んでみようと思う。

新しいことをガツガツ始めたり積極的にインプットをがんばるような気持ちになれないときに、ゆるっとだらっと雑誌を眺めたり、適当な本に手を出せるのは、何か読んでないと落ち着かないわたしみたいな人には向いてるのかもしれない。


という、そんな日記を書いた今日は誕生日でした。
秋は一年でいちばん好きな季節です。
良い年にしたい。

掛け持ちでおたくをやるとこうなるの例

向き合いが過剰になりがちな人間ゆえ、自分の中になにかをインプットできるタイミングおよび総量のバランスを取るのに、最近かなり苦労している。
仕事の話?ではありません。当たり前に趣味の話です(そうかよ)。
推しを追いかけながら宝塚にハマった結果、そうなった。あまりにも当然の帰結すぎる。


複数存在している好きなもの好きな人、そのひとつひとつに触れるたびに、わたしの中では困ったことに感情が毎度「ぎゃあ!」とかなりでかめに動いてしまう。
お前はいちいちやかましいな!?と自分でも思うくらいに、感情のリアクションがでかい。
それを「はい次!」とさらっと流して先に行くことが、なかなかできない。
なのでなにか新しい情報に出会っては「ぎゃあ!」を繰り返すことになる。しばし倒れ、放心し、ぶわっと湧き上がるなにかを気の済むところまで言葉に置き換えて、そこからむくりとがんばって起き上がる。みたいなものが、おたくをやる上での基本の心象風景になっている。
この間の連休最終日、大阪での推しのバースデーイベントに花組の集合日が被り、案の定退団/異動のお知らせがイベントの合間に入ってきたのには、流石にヘトヘトになりました。食べ合わせが!


一時が万事そんな調子になりがちなので、なにがしかの情報に触れて自分の感情を動かすタイミングは、可能なら、なるべく自分のコントロール下に置いておきたい気持ちが強いです。まぁ、難しいんだけど。
この情報は今が旬!とわかっていても、「でも今わたしそれに触れたら、情緒爆発してキャパ超える〜!はい無理〜!」という時が多々あるので、
「あっなんか新しい情報が出たんだな…(※薄目からの把握諦め)」みたいなことをやる機会が増えてきました。

強弱というかメリハリというか、全部を100%の力で追うのはとうてい不可能なので、とにかくいろいろを試行錯誤中。
わたしは大前提としてまりおくん関係に出力100のおたくだなと実感するので、他にも同じ出力を目指そうとしたらそら、倒れるに決まってるわけです。
なので結果として宝塚周りはもうマイペースを貫くしかないと思っていて、ガンガン取りこぼしているところがある…。
お陰で最新号のグラフはようやく読めたけどまだ制作発表見れてないし、なんなら全ツ千秋楽のニュース映像も見てないし、全ツ舞台写真は未入手だし、発売されたらしいクリアポスターはSOLD OUTの文字しか見ていないし…うん、全然追いつけてない!笑


結論としては、感情を動かさないことが無理なので、ではインプットする情報量もタイミングもうまく調整するしかないですね、という話でした。
もどかしいことも多々あるんだけれど、それくらいの距離を戦略的に取れる方が長い目で見ると良かったりするのかな、と感じている。なんかこう、バランスをがんばりたい。一番避けたいのは「疲れた」と感じることなので。
ワーッと同じ話で盛り上がるTLを遠くから「賑やかだなぁ」とぼんやり眺めて、行けるタイミングで後からえっちらおっちら追いつく、くらいでお前にはちょうどいいんだぞ、と自分に言い聞かせています。
というか、掛け持ちのジャンルというか対象として、この組み合わせがヘビーすぎるんだと…そもそも…!笑
どうしてこうなった?&ようやるわ、を自分に対して思わずにはいられない。
わたしがもう一人いたら全て解決するので、そろそろ分身できるようになれたらいいのになー!

枕が合わない

これまで生きてて永遠にそう。わたしは枕が合わない星の下にうまれてきた。


自分で枕を選ぶようになってから、いったいいくつ買ったかわからない。
ありとあらゆる素材や仕組みをためした。低反発、ビーズ、空気で膨らませるタイプ、いろんな素材の組み合わせ、通販のベストセラー商品から、果てはオーダーメイドまで。
それなのに、何を使ってもダメなんである。なぜ!?
最初はフィットしていたものも、いつのまにか合わなくなって寝付けなくなるのだ。
わたしの頭と首よ、それはいったいどういう仕組みをしてるんだ?


大学1年生のとき。どう考えても18歳で睡眠に悩むの早すぎでは?と思うのだが、意を決してテンピュールの一万円する枕をバイト代で買ったことがある。
最初はよかった、と記憶している。でも、数年で合わなくなった。数年持ったのかもあやしい。1〜2年程度だったかもしれない。


社会人1年目のとき。同期に勧められて、オーダーメイドの枕を作った。店舗で実際に寝て作ってもらうタイプのもの。
同期は「えっ!?って思うくらいぐっすり眠れる!肩こりも楽になった!」と感動して勧めてくれたけど、残念ながらわたしは初日からその劇的な効果は感じられなかった。その後徐々に合わなくなり、以下略。


その後社会人のいつ頃か忘れたけど、まだだいぶ若いとき。「通販生活」のベストセラーのメディカル枕というやつを買った。
20代前半の女子が通販生活で買い物するの、なかなかにシュールである。この枕がほしくて通販生活を買ったような記憶がある。
今振り返ると、この枕がいちばんよかったような気がする。寝心地がとてもよかった。それでもやっぱり数年で…以下略。


この調子で、本当にたくさんの枕を試しては、短いサイクルで挫折することを繰り返している。

去年、新たにオーダーメイドの枕を買ってみた。
これはいろんな意味で失敗だった。
まず1点目、複数のビーズを入れて作られている枕なので、お店に持ち込んで定期的なメンテナンスが必要なのである。
そもそも、わたしのようなものぐさエリートが、そのような商品は決して買ってはならない。なんでいけると思ったんだ、去年のわたしよ。己のやる気を過信した浅はかさを恨む。
そもそも土日に枕を抱えてお店に行く暇などないことくらい少し考えればわかるのだが(観劇で忙しいので)、去年は現場が無さすぎてとち狂ったんだと思う。色々とかわいそうだ。


2点目に…まぁこれがメンテナンスに行きたくなくなった本当の理由なんだけど、去年メンテナンスに持ち込んだときに、よその店舗から来ているという調子のいい兄さんに、寝具のオススメという名のもはや押し売りやんけ、をされた。(買っていないので安心してね)
その時は暇だったので「買う気ありませんよ」と冒頭に伝えて話は適当に流して切り上げればいいや、と思っていたんだけど、甘かった。兄さんしつこい。まじで超しつこい。結果的にふつうに疲れた。
勧められたのは、ウン十万円するウール100%のベッドの上に敷く何かでした。いやなんで買うと思う?買わんやろ???笑
ふかふかして気持ちよかったけど。真夏でも使えるんですよ!言われたけど。いや買わんやろ。分割払いの説明も要らんて。割引の説明も要らんて。最初に買わんって言ったやん?
その日はぐったりして帰った。
適当に流せば話を聞くくらいならいいや、くらいの半端な親切心を無駄に発揮したがために、ゴリゴリに営業されたのが悲しくてしんどかった。
更にはこの兄さん、笑いを取ってくるのだが、それが全然面白くないので、余計に疲れたし腹が立った。その話術で面白いなどと思うな、と怒りが湧いた。一番腹が立つのは自分ではそれ面白いと思ってるんやろ、ってところだった。
その面白くなさをここで再現できたら読み物としては100点なのだが、残念ながら何一つ話の中身は覚えていない。


…みたいな感じで余計なおみそがつき、メンテナンスを長らく放置した枕、今現在、当然のように全く合わない。毎晩寝付くのにかなり苦労している。
「高いお金だしても何を試してもダメなら、もうニトリでいいじゃん!」って気持ちになってきたので、そのうちニトリで枕を買うかもしれない。
最近、ホテルライクな枕が話題ですよね。でもわたし、ホテルの枕苦手なのよね(じゃあ絶対買っちゃダメでは?)。


引越しのたびに、複数の枕を処分して生きてきた。
ひとりの人間が人生で使う量としては既にかなり多そうだ。たくさん買ってはお別れを繰り返してきているので、死後の世界で「枕使い捨て地獄」みたいなところに送り込まれないだろうかと不安になる。

世の中の人、どうやって枕を選んでるんだろう?
実際に寝て選んでもダメだから、もう諦めていてわりと詰んでいて、本気でなんとかしたいです。安眠したい。

疲労

お察しの通りの内容になるが、以下、とても珍しくネガティブな文で失礼する。

この数時間、精神的にぎちぎちに身動きの取れないような状況が続き、大変に疲れた。
SNSで何か発言するときは常に「気をつける」ようにしているけど、それにしても疲れる。ちょっと何も言えないに近かった。


ここまで重なると打つ手なしというか、無理である。
本当にもう、なんだっていうんだ?


今回の件、モットーのとおりの完全なる善性の心で受けたのか、
それとも倒れてもタダでは起き上がらないしたたかな商売魂で受けたのか、
真意はよくわからないんだけど、でも劇団を責める気にもならない。
ただ、起きた事象についてはとりあえず「無理なものは無理〜〜〜はい無理〜〜〜マジでふざけんな〜〜〜!」という気持ちで、諦めて意識から放り投げた。

この数週間、こうやって「意識から放り投げる」ことをけっこうやっていたんだけど、でもそれすらもじわじわと自分にダメージを与えるんだなってわかった。
正直、すごーく疲れた。
どっちも向いても何をやっても、どっと疲労感のたまるようなことがあまりにも続きすぎ。

この国において文化芸術は根本的なところではっきりと舐められ続けているし、本質的なリスペクトがあるなんて思えるはずのないあらゆることが既に渦巻きすぎた、そういう場に、最終的に都合よく引っ張り出されることへの悔しさと脱力感と。

ポジティブな形で話題になんかしたくない、それこそが思う壺だから。それは加担するに等しい。
そしてこんな中途半端なことを言ってないで怒るなら積極的に怒ればいいのだけど、なんかもう、それすら難しい。だって疲れすぎて。
ファンの間で意見が割れる割れないに気を遣うことにも、もう疲れた。気を遣ってもきっと誰かのことは傷つけるのだろう、申し訳ない。
こういう風に投げ出す文章を自分が書くことも、相当に珍しい。
さすがに今回ばかりはやってらんねぇと思ったので、やってらんねぇ感丸出しで書かせてもらった。


彼女たちにこれ以上余計なものを背負わせんどいてくださいよという怒りも新たにふつふつと湧き上がりつつ、
心身ともにかかる負担が、どうか最小限であってくれますように。
余計なことに可能な限り、煩わされずにいてくださいますように。

ハァ〜〜〜〜〜本当マジで何なん??!!!

内と外

明らかに本館のブログに書きなよ、という内容なんだけど、あちらは見てくれる人数が桁違いゆえ、ごく私的な言葉を書くのはなんだか気が引けて(…ブログなのに!?)なんとなくこっちに書いています。前置きがなげえんだわ。



もう何度もあちこちで書いている話なんだけれど、表に立つ仕事をする人としての、まりおくんのスタンスと安定感が本当に好き、という話をします。


自分が表に出すと決めたこと、どう振る舞うべきかを考えた結果、選ばれて表出されるもの。その内容の一貫性と、とにかく「安心して見てられる感」には、目を見張るものがあると常々思います。

先日まりおくんが企画者として開催されたアクターズリーグで、もうファンはあらゆる面で大興奮&大喜びをしたんですけど、

マルチアングルで配信されていた「ベンチカメラ」の様子が、とにかく最高だった。

チームキャプテンでもありプロデューサー業も兼ねているまりおくん。試合中に常に色々な部分に細かく目配りをしている様子が、その映像からふんだんに伝わってきました。
何回でも選手交代可能な特別ルールを活かして「まだ打ってない人!」ってメンバーに声をかけては打順を組み替えたり、スタッフさんとこまめに段取りを確認する会話をしていたり、初回ベンチに戻ってすぐ「マスクつけよう!」ってジェスチャーでメンバーに促したり、守備・攻撃の両局面でキャプテンとして打席やマウンドに立つ選手を鼓舞する声出しをしたり…そんな姿が目一杯映っていたんです。

なんというか…「そりゃあ、この人にはみんな自然とついていくよな」って納得するしかない感じの、ケチの付けようのない、あまりにも立派で頼もしい振る舞いでした。

なんせ普段のお仕事よりもだいぶ素に近いはずの状態で、あのかっこいい野球のユニフォーム姿で(似合いすぎなのよ)、そんなの長時間見せられたらもう「好き…!!!」になってしまうしかなくて……いやもとから好きなんですけど(茶番)、もうとにかく徹底的にやられました。清々しいほどにやられた。
現地でプレー姿見てるときも間違いなく最高にかっこいいなと思ったけど、配信で舞台裏を見て、余計に好きが加速しましたね。


どうあるべきかを決め、かつそのように振る舞うためには、揺るぎない意志の力が絶対に必要です。
まりおくんはこの半年ちょっとの間で、なんだかぐっと背負うものが増えたというか…そういう「なにかを背負って立つ」役目を担う機会が、特に多かった期間のように思います。
増えた責任の中で守るものは守りつつ、でも攻める部分も大切に、姿勢としてはニュートラルに柔軟に、それでいて芯にある自分らしさは失わずに…といった風に、のびやかに今の時間の中を泳ぐ姿、本当にただただ、かっこいいなぁと、痺れるように思うのです。
もうね、「在り方」がかっこいいのよ。


そしてなにより、そういった形で「表」に見せる姿と、プライベートとして保持する内側の部分とに、しっかりと線を引いているところも、こちらからは見ていて安心できるポイントだったりします。

どうかその内側の世界は、ただご自身のために、この先も変わらずに守りつづけてほしいなぁと思う。
ファンから見てとてつもなく距離感が近いように感じさせてくれる部分と、かといって実際は果てしなく遠いよねと実感する部分とが両立している、そのバランス感覚がなんといっても頼もしい。
具体的にうまく言えないのですが、まりおくんを見てると「あぁ、ちゃんと(?)隠されている部分があるんだな」と思って、すごく安心する瞬間があるんですよ。


そうなんだよー、あくまでもそうすると決めて「外」に見せてくれる姿だけでいいんだ。それを見て素敵だねかっこいいね!ってキャーキャー言えたら、こちらはそれで十分なんです。
まりおくんがお仕事に傾けた情熱や注いだ努力はあやまたず全て受け取っていたいなと思うけど、かといって内側を何でもかんでも共有できるなんて思ってやしない、仕事から伺い知れる"その先"までは、無理に見たいつもりはないのです。心身ともに健やかであってくれたら、それで良い!


表に出る俳優という職業を続けてくれてありがたいなぁ、お仕事の様子がいつも楽しいなぁ、みたいな気持ちになることが常なので、ご本人のスタンスとこちらの応援のタイプが、何かしらちょうどいい具合に噛み合っているのかな、とも思います。
だとしたらそれもまた、ラッキーなご縁であることかな。


このかっこよさも安定感も、俳優という仕事を続ける上ではもはや欠かせない強みであり、才能であるなと思うわけです。
「応援してて、とにかく楽しいんだよな、かっこよすぎて本当、困っちゃうんだよな……」という気持ちがロミジュリ大楽→アクターズリーグの流れでどうにも止まらなくなり、唐突に書きたくなった文章でした。



そして「そういえばこれを大幅に引き伸ばしたみたいな記事、本館にあったわ」というオチがこちら。

女子高生時代に友達同士で手紙を書いていた話

唐突な今日の日記は、昨日ツイートした内容から。

上記、昨夜なんの気無しにツイートしました。一晩経ってまだ現在進行系でじわじわといいねをもらうので、この封筒*1が好きな宝塚ファンはとっても多いと見える!

この内容を書きながら、ふと思ったのです。「いま現役で女子高生をやっている子たちは、果たして友達同士で物理的な手紙をやりとりするのかな?」って。
なのでそう前置きをしていたら、実際に女子高生ですという方からリプをもらって、「やっぱり書かないです」とのことだったんですよ。
そ、そうなんだ〜…!なんとなくそうかなって思ってはいたけど、やっぱりそうなんだ…!(衝撃を受けている様子)


わたしはゼロ年代に福岡でJKをやっておりました。
いわゆるガラケー全盛期、全員が基本パカパカタイプの携帯を持っていて、月額数百円のディズニーのプランに入って月に数枚しか選べない待受を吟味してダウンロードしたり、着メロや点滅するライトのパターンを組み合わせて友達グループと彼氏の着信を使い分けたり…そういう青春の世代です。

手紙といっても、別にレターセットを使うわけじゃないです。
いわゆる「メモ帳」としか呼べないんですが、ジャンルとしてはファンシー文具の、なんともいえないこまいサイズで、硬いプラスチックの表紙がついてて、一枚ずつぺりぺりと綺麗に切り離して使えるタイプの…そういう何かしらの絵柄がついたメモ帳に、カラーペンでちまちまと文字を埋めては、それを”角の二箇所とれた長方形のような形”に折ったり、興が乗った日はハート型に折ってみたりして、お互いにせっせと送りあっていた記憶があります。
特にディズニー好きというわけじゃないのに、流行りにのっていたのか、当時のわたしはなぜかディズニープリンセス柄のメモ帳を愛用していた気がする。

その頃の自分たちが、そのメモ帳にいったいどんな手紙を書いていたのか…その中身は正直さっぱり思い出せないんだけど、でもそのほとんど全てが本当に「他愛のない」内容を書いた手紙だったんだと思います。
プリクラをあげるついでに、それの包み紙のような役割として、頻繁に手紙を書いていた。
普通に毎日話すし別にメールだってできるのに、なんで手紙だったんだろう…もうあれは、ひとつの「文化」だったんじゃないのかなぁ、という気持ちになる。


そういうわけで具体的な中身についてはなんにも覚えていないけれど、手紙にまつわる思い出の景色としては、
10分休みの間にとなりのクラスの親友のところに行って、教室の入り口で彼女を呼び出して昨日家で書いてきた手紙を渡したり、
理系クラスに進学したもう一人の親友が棟をこえて昼休みにふらっと授業中に書いた手紙を持ってきてくれたり、
なんだかそういう「廊下と教室のさかいめ」みたいな場所の光景が、ぼんやりと浮かんできます。


わたしは未だに友達にしょっちゅう手紙を書くし、応援してる人にはファンレターも書くから、人よりは手書きで文字を書く頻度がかなり高い人間ではあるんですが、
あの頃の「友達に書く手紙」は、そういうわたし個人の習性を超えた、ものすごく普遍的な習慣として身のまわりに存在していたように思います。
スマホのある生活の手軽さとはもちろん全く違うけど、携帯メールにはそれなりに依存した青春だったから、ほかにコミュニケーションの手段がなかったわけでは全くないの。
ないんだけど、なんかこう、当たり前に日常として、手紙を書いていたんですよねぇ。


流石にいま手元にはないけれど、特に大切に思った手紙はきちんとよりわけてとってあって、実家にはまだあるはず。
実は中学生のころから、友達にもらった特別な節目の手紙は捨てずに置いてあって…久しぶりに、どんな内容だったのか読んでみたくなった。
(※こういう何でもかんでも思い出の品を取っておく系の人間がこの世にはどうしてもいるものですが、「ヤメローッ!」って声もどこかから聞こえてくる気がしますね。笑)


手紙って、なんでこんなに魅力的なんでしょうね。
そんな自分がお手紙文化の根強い宝塚に流れ着いたのはどこか必然のような気もしつつ、
手紙を書くのももらうのも、いくつになってもわたしは好きなままです。


…さっきやってみたんですけど、この折り方、伝わります?笑
キャトルの袋、今度ほんとに友達あてのお手紙の封筒にして使おうっと。
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*1:コレクションカード、ポケットスチールと呼ばれる「ラミネート加工された名刺サイズの小さな複製ポスターやお写真」をキャトルレーヴ(※宝塚の公式グッズ専門店)店頭で買うと、必ず入れてくれる封筒です!