観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

「ステータス:強い」がもたらすもの

やらなきゃいけないことがあったり、叶えたいことがあったり、
どうしても譲れないものがある!という場面で、じゃあどうするの?と言われたら、
とりあえずわたしには「やる」以外の選択肢がない。
やらなきゃいけないことは、やらないと終わらないし、努力しないと欲しい物が手に入らないのだったら努力する。だからとりあえず、できることを全て、やる。
考えててもグダグダ言ってても状況は変わりっこないのだし、「やる」以外に取れる手段はそこにない。その方が早いって思うから。
そうやってガシガシと体当たりのように全てのことにぶつかり続けていたら、「強い人だね」と思われることが昔よりだいぶ増えたように思う。


…そういうふうに強いと思われることがしんどい、という話をしたいと思われたでしょうか。いえ、ちょっと違うんです。

ここ半年くらいで難しいなぁしんどいなぁと感じたのは、そうやって「ステータス:強い」をがむしゃらに装備している状態が、私の中で周囲への気配りのなさ、無理解を生じさせる原因になっているのでは?という可能性に気がついたこと、である。

わかりやすくいうと「自分ができるから周りだってできるでしょ」「やればいいのになんでやらないの」みたいな思想を、いつのまにか持ってしまっていないか?ということですね。
無意識のうちに結局すべてを強者の理論で語ろうとしているんじゃないか、みたいなところに思い至るようになって、うわそれめっちゃしんどいやんけ!?って感じている。
強者の理論ですべてを語ることだけは絶対にしたらだめだなと思うから、そこには想像力を残し続ける努力が必要で、そうして自分を律していくのもけっこう骨の折れることではあります。


自分で決めて、実際に決めたとおりに進める力があることは、たしかに強いのかもしれない。
でもたぶん、そこにあるのは「意志」だけで、事実がどうであれ、状況がどうであれ、やろうと思ったから全てのことをやっているだけなのだ。
でもその事実やありようだけでもいったん誰かを傷つけるのだとしたら、本当にどうしたらいいのかなぁ…と思うことがある。
そしてそこに関しては、本当になにもできないのが多分正しくて。
受容する側の在り方にまで心を砕いていたら、いつか私の心が死んでしまうと思うので、どうもしないんだけど。
なんていうか、それでも「(私が)いるだけで疲れる・しんどい思いを(周囲に)させる」タイプの人間では確実にあるわけだな、と感じる瞬間がぴりぴりとあって、うへ~それ、自分で自分に疲れる~かなし~!って思ったりしている。


私は言うほど強い人間ではとくになく、あるのは負けず嫌いでわがままな意志のかたまりだけです。そしてここには、言うほど強いとは思われてない、ただのひとりずもうの可能性もある。めんどうくさい!


でね、ここまで書いていて、最終的に頭に浮かんだのは幕末天狼傳でのはっちと兼さんのやりとりだから…おたくをやっていると生きやすくなることは確実だな!と思いました。
何かを背負ってる人物造形に異常に感情移入するのも、このメンタリティだとさもありなんだよな!
私が刀ミュの三日月やエリザベートのシシィに感情移入するのは、自分としては納得感しかない。(※ウルトラおこがましいということを前提として聞いてください)
あと、基本的に自分のこと考えるのすごく嫌なんですよ!…だって二十歳そこそこの若人じゃあるまいし、自分のこと考えても、得るものってとくになくない!?笑 大学生のころに飽きるくらい考えたからもうええわ!
自分について考えたって欠陥が目につくだけだし、マジで無駄に疲れるだけじゃん!落ち込むし!…って思うので、そのエネルギーを推しと好きなエンタメに全振りして生きてるんですが、元がしぬほどめんどくさい性格をしている私には、そのバランスがめっちゃちょうどいいっぽいです。
推しのこと考えてると勝手に精神状態が安定する!間違いなく、推しの存在は、人生のインフラ!!!(クソデカ声)


なんにせよそういう癒やしの側面もエンタメやフィクションには多分にあるんだよなぁ、とつくづく思うので、早く次の観劇に行きたいです。…最終的にブログのタイトルを無視するんじゃねえ!