観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

日記:とりあえず今について

Twitterでああでもないこうでもないとウロウロしたつぶやきばかりしていてもなんだかなぁ、と思ったのでブログを活用する。
ぜんぜん明るい話はしていない。観劇以外というタイトルだけど、以下観劇の話しか出てこない、今の日記のようなもの。



毎日、なにを頼りにすればよいのかわからない思いになる。状況は刻々とかわりゆく。そのときそのとき、自分がなにを考えて、どうしたいと思っているのか、とるべき行動は何なのか、とにかく100%で問い続けないといけないなと感じる。


今わたしが一番怖いのは、諦めと慣れ。
人間はどうしたって、置かれた状況に「慣れる」ようにできている。それは生き延びるために。
適応していかないと、生きていかれないから、非日常が日常に変わっても、人はだれでも、徐々にそこに慣れていく。
わたしもきっと慣れていくんだろう、と思うんだけれど、観劇を失う状況に「慣れる」ことが、今はとにかく、ものすごく怖い。

たぶん、いったんは執着のようなものから手を離してすっぱりと全てを諦め、状況が好転し、日常が戻ってきたときにすっと元のように好きなことに戻っていく、みたいなふるまいができれば、きっと一番スマートなんだろう。

でもわたしは、手放すことがそもそも苦しい。真正面から向き合うことで多少(とはいえない、だいぶ)疲弊するのだとしても、今はまだ、好きなものへの愛情と執着を、ぎゅっと握ったままでいたい。
あるはずだった作品、迎えられるはずだった初日のことを、まだ心の中で惜しみ続けたくて、それを楽しみにしていた自分の気持ちが泣きたいというのなら、気の済むまで泣いていたい、と思う。
気付いたら本当に毎晩ぽろぽろと泣いているので、びっくりする。
さっきは徹子の部屋スペシャルで、マツコさんとキムタクと徹子さんが話している中で「帝劇」って言葉が出てきただけで、テレビを見ながら条件反射のようにびゃって涙がでた。とてもくるしい。今書きながらやっぱり泣いている。


脳内がお花畑なわけではないので、この状況で上演など叶うはずがないということは、誰に言われずとも理解している。告知される公演中止の期間は、きっとこのあとまた延長されるだろう。むしろ安心して劇場に行く自信は、わたしにだって微塵もない。無理なものは無理なのだ。むしろすでに首都圏は封鎖されて然るべきなんじゃないか、本当にこのままで大丈夫なのか?医療リソースを食いつぶす前に手を打たなくていいのか?と思っているくらいだ。それが現実。

でもその理解とは別に、この苦しい気持ちとかなしい気持ちは真ん中にずっと存在する。
だって、本当に楽しみにしていた。わたしは心底、舞台が好きだ。
応援している人のこれ以上ない晴れの場に、どうしたって立ち会いたかった。
その自分の楽しみな気持ちがつぶれたことはまだ自分でなんとかできるとしても、じゃあそこに命をかけていた演じる側の人はどんな思いでいるのだろうと考えると、胸が潰れそうになる。
人前に立つ人たちが、裏方で支える人たちが、普段どれだけ心を砕き、時間を割き、体を削って、作品づくりに向き合っているか、この数年で少しはわかっているつもりだから。
そしてそこに伴っているはずの、途方も無い額のお金は?経済面でもずっと放り出されたままのエンタメ業界の現状と未来を思うと、胃に石を詰め込まれたような感覚になる。


今はほんとうにいろんな立場の人がいて、わたしのこんな嘆きなんて能天気極まりなく、見る人から見たらそれだけで不謹慎だとか、当然色々あるだろうと思う。
だけど、舞台を好きな人がその気持ちを言葉にしなければ、たぶん味方は他に誰もいない。2月後半からの”自粛”の流れに、心底それを痛感した。
だからせめて、本当の気持ちくらいちゃんと残そうと思う、のでこうして書いている。


結果としては感染拡大の防止に大きくつながったのかもしれない、けれど、その過程であまりに理不尽に押しつぶされた、2月26日以降の「ステージ」たちの苦難と彷徨い、その様子を見続けて得た疲労。そして今はまた別な、新たなしんどさに苛まれている気がする。


こんな中で、応援してる人のためにできることが本当になくって、あればいいのにな。ないんだよなぁ。ずっとずっと考えている。めちゃくちゃ推しに会いたい。泣ける。
とにかく、元気でいてほしい。元気でいてくれますように。きっとだいじょうぶだよね。わたしもがんばって健康を維持する。元気でいなきゃ。
会える日まで、生きのびるのだ。