観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

言葉が好きな理由

のひとつになっている思い出について、急に書いてみる。

 

その時、わたしは社会人2年目で、わかりやすくボロボロに疲れていた。上京して1年が経っていたが、それでも東京は全くもって親しみを持てる土地にはならず、新卒配属ガチャの結果適性とはかなり遠ざかった位置にあるとしか思えない日々の仕事は、ちんぷんかんぷんなままなのになぜか「できてる風」に進んでいて、プレッシャーとストレスに苛まれていた。しかもその頃はまだおたく前夜で本気の本気で趣味がなく、福岡から上京してきた友人がほとんどおらず、休みの日に美術館に頑張って出掛けては何を見にきてるんだかわからない人混みに泣いた。本を読むくらいしか楽しみがなく、つけていた読書日記は120冊を数えていた。

 

そんなふうにどうにもこうにも疲れ果て、朝だというのに溌剌さのかけらもなく、現実から逃れるような気持ちで、通勤電車の中で開いていた文庫本で、わたしはひとつの奇跡に出会う。

 

読んでいたのは、わたしが人生を救われたといっても過言ではないほどの影響を受けている敬愛する作家の人のエッセイ本で、巻末に読者から寄せられた質問に答えるQAコーナーがあった。

そこにまとめられている質問のひとつを読んだ時、あれ、なんだかこの人、わたしみたいだな、と思って、はっと気づいたのだ。それは、紛れもなく、約1年半ほどまえに、学生の頃にわたしが寄せた質問だった。

 

その事実に気づいた瞬間、あまりに驚いて、体が固まった。稲妻に打たれたような感覚、ってまさにこういう時に使うんだと思った。

 

目まぐるしい生活の変化に、投稿したことすらもう覚えていなかったその質問に、作家の人はお礼ののちに、ずばっと端的な、本質だけを返すような言葉で回答をくれていた。

その答えを読んだ時に、届くとは思っていなかった「言葉」が届く瞬間は、確かにあるんだと知った。まさしく奇跡でしかないと思った。

 

質問とともにしたためた、学生の自分が考えた拙いけれど懸命な作品への感想に、その作家の人は「そんな風に読んでくれてありがとう、伝わって嬉しい」という意味の言葉を、返してくれていた。

生活において限りなく、果てしなく遠いはずの相手にも、真実と感じる内容はこんな形でふと通じることがあってしまうのだと思うと、途方もない気持ちになった。

到底信じられないような思いで、そのあとの通勤時間は、ただ泣くことを堪えるのに必死になったことを覚えている。

 

その質問は、本になる前に実は先にその作家のWebサイトに掲載されていたのだ。Webに採用されて載った質問のうち、さらにいくつかのみが絞られて、文庫におさめられる仕組みだった。もともとまめにチェックしていたそのサイトも、社会人になりいつのまにか読まなくなっていて、わたしは自分の質問が採用されていたことに、それまで気づいていなかった。

でも、事実を知ったのが、あの瞬間、あの電車の中で、本当に良かったと思った。あのタイミングでなかったら、あれほどに「救われた」実感を、得ることもなかっただろうから。未来の自分のために、過去の自分が無意識に遠ざけていたのではないかと思うくらい、その出来事はどうしようもなく、救いになった。

 

なるべくなら良き願いを込めて言葉を使っていたいと思うのは、たぶんこの思い出に大きな背景がある。たとえ無駄に思えることが多くても、楽しいこと、面白いこと、笑えることのために、言葉を使い続けたい。