観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

舌をしまう(へびのきもち)

運動不足と戦っているつもり…という割には継続力が全くないので、それは嘘だった。でもとにかく、あまりにも体を動かせていないので、危機感だけはいっちょまえにある。
年末に旦那さんが買ったエアロバイクをがんばってアニメ1本ぶん見ながら漕いだりしているのだけど、とにかく続けないことには意味がないのだろうな…。エアロバイクは「何かを見ながら運動できる」ことが最大の利点だな!と見るものが多いオタクは喜んでいるのだけど、でもこれだと太ももだけが異様に鍛えられてしまうのでは?とも思う。心肺機能の増強には効果がありそうだけど。
脚ばっかり動かしてちゃ肩こりはよくならないよなと、金曜日に調子に乗って久しぶりにフィットボクシングをしたら、この土日は笑えるくらいの筋肉痛に襲われている。衰えは怖い。
やたらと運動手段だけは充実しつつある我が家、反省してまじめに運動します。いろいろ選べると気分転換にもなるかもしれないし。


以下はぜんぜん別の話。
特に伝えなくてもいいかもしれない内容を、義務はいっさいない言葉を、それでも誰かのために敢えて選んで使えるとしたら、それは本当に尊いことだなぁと思う出来事があった。
言った本人にとってはそこまで気負ったものでなくても、受け取る側にとってはなにか肩の荷を下ろすかのように驚くほどに楽になれる、そんな言葉やシチュエーションも、やっぱりこの世にはある。

その反対に、何の気無しに放った言葉が、誰かをどうしようもなく傷つけることもある。

前者を過不足なくできる人間になれたらと思うけど、書いてて正直できる気はしなくて、
じゃあせめて、後者を狙ってすることだけはないようにしていたい。
事故は100%防げないかもしれないけど、誰かを悲しませたり傷つけたりするために言葉を使いたくないなと、当たり前のこととして思う。というかうーん。そんなことをしたいと思う状況がやっぱり全然思いつかないんだよな。おめでたいのかな。おめでたいんだろうな。

言ったことは取り消せない。仮に発言した側が反省したとしても、忘れてもらえるとは限らない。
わたしは怒りが持続しないタイプだけれど(怒り続けるのが面倒になるので)、ごく稀にへびのようにしつこく覚えている物事もある。ちろちろ。スパンで言うと5年にいっかいくらい、そういう出来事も起こります。


なんでそういう衝突が起きてしまうのかって、それはもう違う人間どうし、他人の感情を理解しきることなんて到底無理だから…に尽きるのだと思う。
でも、その立場の違いからくる世界の見え方、その異なりようで起きる全てを「仕方のないこと」と片付けるのは…なんだか諦めが先に立ちすぎているようで違和感があって、
じゃあどうするの?いったい何ができるの?…とも思うんだけど。今の環境は余計にそれを感じざるを得なくて難しい。
「立場の違い」が、個々の事情が大きすぎて、絶対に誰も傷つけないなんてできないな、と思う。
だからとにかく常日頃、使う言葉に気をつけて過ごしていくしかないな、と思った。
また、そうして気をつけすぎて勝手に息苦しくなりすぎないようにもしたいな、と。


ひとつおもうのは、狙って傷つけようとして、一方的に懲らしめてやろうとして、そんなふうに使われた(かもしれない)言葉について、まじめに傷ついてやる義理なんてないのです。
心の中でつい真っ赤な舌をちらつかせても、それを抱えることに飽きて草むらにするりと戻っていけるのなら、そのほうがいいのかもしれない。と思う。
反対に、明るいものをもらったときには、ただまっすぐな感謝だけを残していけたらなと思う。