観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

他人に興味がないのではなく、他人を思い通りにすることに興味がない

言葉の選び方が不用意に過ぎて、「他人に興味がないんです」と言ってしまうことが以前からよくあったんだけど、これってどう考えてもものすごく誤解を招く表現だなと思い反省したので、使うのをやめた。
人によってはおそらく私がイメージするのと真逆な意味で捉えられたりするので、なにかもっと適切な表現はないものか、と感じていたが、ようやくわかった。

他人に興味がないわけではない。
他人を「自分の思い通りにする」ことに興味がないのだ。


誰か他の人の考えを変えたいとか、影響を与えたいとか、そういうふうに全く思わない。
おそらくはその延長線上で、人の噂話にも興味がわかない。
もっとやりたいこと、時間を使いたいことはいくらでもある。
なのでなにかの話題に対して「誰々さんはどうして私の意見に賛成してくれないんだろう?」みたいな気持ちがなかなか湧きにくい。
自分と同じものを他人にも好きになってほしい、という欲求も、こう見えてたぶんものすごく低い。
感想を大量に書いてるくせに?と思われるだろうし、時折いわゆる宣伝・布教系のツイートだってするじゃないかと不思議に思われそうなんだけれど、
感想については「自分でもわからないが書かないと死ぬ!」みたいな衝動に突き動かされて書いており、単に書きたいだけなのであり、布教は実は全然してないと思う。
なにか好きな作品の配信や放送がある時は今が世に広がるチャンス!と思ってその事実を全力で叫ぶけれど、少しでも認知が広がったら嬉しいというだけだし、その結果自分と同じ感想を持つ人が増えたら嬉しい、と思ったことは全くない。
だって、人は人なんよ。自分じゃないんよ。それで十分なんよ!

一緒じゃないと不安・満足できない、の反対で、
「私たちっておんなじだよね」みたいな笑顔を向けられるとわぁぁ!と叫びながら吹っ飛んで逃げ出してしまうところがある。同調圧力、差し向けられると命にかかわる。
いつからそうなのかは覚えてないけど、年齢が上がるにつれてその傾向が強まって、なんだかいつのまにか、こんなふうに仕上がってしまった。
なのでよく思うのが「自分はソーシャルネットワーキングがあまりにも苦手だな」ということだったりする。こんなにもツイ廃のくせに。
言葉を虚空に叫ぶことはいくらでもできるけど、ネットワークの構築は不得手。とことん向いてない。
毎日、私はTwitterの中で岩山にかじりついて気の済むまで遠吠えをしている。そして風に乗って流れてくる周波数の同じ遠吠え同士でたまにセッションできるくらいの感覚が、とってもちょうどいい。


たぶん誰しも経験あると思うんだけど、
「自分が好んでいるものや生活様式について興味を持たれる→説明した結果、それを否定されたりひどいと軽く馬鹿にされたりする」みたいな流れ、ありますよね。
20代前半に、その類の出来事がなんだか立て続けに起きた時期があった。
いやなんで聞いたん?みたいな。いやなんで私の人生否定されないかんの?みたいな。

そのあれこれがよほど嫌だったのだろう、
自分がされて嫌だったこと=興味を持ってほじくり返す、を他人に対して行うことを全力で忌避した結果、
「他人に興味がない」発言をするに至ったような気がする。

私にとってはそれは精いっぱいの誠実さで、周りに対して何かこちらの考えを押し付けるつもりは一切ありませんよ!の宣言なんだけれど、たぶん人にとっては真逆に捉えられることがある。昔はそれがよくわからなくて不要な軋轢を生んだりしたけれど、でも今考えるとそれはそれで当然だなと思う。
そういうつもりがないのだとしても、その言葉の選び方では何かを切り捨てているように聞こえると思うから。なので、それはやめようと思った。
少なくとも目の前の人に対して興味がありませんと言い放つような蛮行はしてないつもりなんだけど(そう思いたい)、だとしても不要に誰かを傷つけたりすることのないように気をつけよう…と思えるくらいには大人になった。

それこそ、積極的に他人に興味を持つ態度こそが、誠実さの表明であるタイプの人もいると思うのだ。
それは私とは正反対だけど、価値観は異なっていて当たり前だ。そしてそんなふうに異なる価値観の両者が同居している状況こそが、多様性ってものなんだろう、きっと。


たぶん私が言いたいのは、
「干渉はしません、尊重をします。そのために必要な距離がある場合は、積極的にとります。」
ということなんだと思う。
それくらいの感覚でいられるのが、精神衛生にとても良いように思う。