丘を越え僕たちは歩く…というわけで*1、
生活って生きてる限り、当たり前に終わらないんだなぁと思った話。
先週の水曜日から日曜朝にかけて、久しぶりに福岡の実家に帰っていた。
とくに何の理由もなく「たまには帰るか」とふと思いついて&博多座でちょうどいい演目があるのを待っていたら今年はもう帰るタイミングが無さそうだな?と気づいたため。
急に思いついて連絡したけどタイミングよく両親、というか登山が趣味な父も家にいる週末だとわかったのでそのまま決行を決めた。
水曜夜に羽田から飛んで、木曜と金曜は実家からリモートワークにして、土曜日は皆んなで(両親+私で)どこかに出かけようか〜という段取りを組んだ。
で、その予定通りにこの週末までたいへん有意義な帰省をしたのだけれど、その中でタイトルの言葉が脳裏に浮かんだ。
なにをきっかけにかというと、毎日の「食事」を通して。
木曜と金曜の二日はどこにも出かけない形になるため、家で3食食べることになるのだが、
その3食を本当にきっちりと用意している両親に「すごいな…?」と新鮮に驚いてしまったのだ。
母によると、特に子供が帰省などでおらずに夫婦二人だけの時でも、主に父主導で「ちゃんと食べる」体制になっているらしい(それは大変に喜ばしいことである)。
年代の割に珍しいのかもしれないがうちの父は台所に本当にマメに立つ人なので、毎食の皿洗いをやっているし朝ごはんも毎日父が用意している。
父は自営業のため自宅で仕事をしている日が多いのもあり、二人で協力してなんやかやと食事を用意しているらしい。
そんなこんなで、食事の計画みたいなものが当たり前にルーティンに組み込まれているから、両親揃って「お昼何食べたい?夜は何にする?」と聞いてくれるわけなのだけど、
そのたびに「えぇ〜!…なんでもたべる!」等の全く役に立たない返答をする娘になっていた。
そんな不毛な返答だったのになぜか金曜日の夜はハンバーグを食べることになっていた。すごい。
仕事を終えた後に母と一緒に台所に並んで、ひき肉をシリコンのへらで捏ねて、これどうやって焼くの?とかの作り方の話そのほか、本当に他愛もない話をしながらあれこれと手を動かすうちに、品数が複数ある食卓が出来上がる事実に、なんだかバカみたいにびっくりしてしまった。
なんというかね…責任を持って一定の時期、子育てとして自分以外の他者の命を預かっていた人たちならではの地力というか…その時の行動が当たり前になっている積み重ねの力、みたいなものを痛感したんだよね。そしてそれは、今の私が全く持たないジャンルの力でもある。
生活ってやっぱり「意志」だなと思ってて。長い時間をかけてそれだけ強固に形作られたものって、やはりそのまま人生というか、生活そのものになっていくのかな…みたいな。何も考えずに生きていくこともできるけど、本当に小さいことの積み重ねで変わっていくことも沢山あるよな…みたいな。
かつて「食事」をちゃんとしようとした結果、今も連続性をもってちゃんとしている、というように見えたのだ、両親の姿が。全然うまく言えないんだけど。だからこそ「すごいな」と思ったんだろうなって。
力を込めた「丁寧な暮らし」は私はもうとうに諦めた人間だし、さらに言えば私自身が人生で子供を持つことはこの先もきっとないのだけど、
脱力系の生活でもいいから、ほんのちょっぴりでも自分が望むように、なおかつなるべく健康でいられるように、日々を進めていければいいなぁと思った。
だって、なんにせよこれからも毎日は続いていくのだから。
その気持ちを込めて、買って以来1ヶ月寝かせたままだった蒸篭をようやく本日の夕飯でデビューさせた(母に実地で使い方を教わったので使う勇気が出た)。
結論、蒸篭ってマジで噂に違わずたいへん便利!鶏むね肉がめっちゃ柔らかくなって感動した。美味しかった!
そして蒸篭の難点は取り回しと聞く…このままカビさせずに活躍させられることを祈ります。ちゃんと乾かそう。
これは丘、ではなくて由布岳。大分県は湯布院にある山です。
土曜日に両親と出かけたドライブ、福岡から往復で約200キロだったらしいのだが、湯布院〜九重あたりをゆるっと回る内容でとても楽しかった。
福岡からほんのちょっと出かけただけでこんな景色に出会えてしまう。いや片道100キロって全くほんのちょっとではないんですが。笑
大好きなあの街はもうすぐ、ど真ん中のあちこちに賑やかな飾り山が立つ季節を迎える。