書かれないものは、読めない
書いた後の自分の文章を読むのが好きなので、読みたいのならば書かねばならない。という話。
……文章を書くペースが本当に落ちた!
理由は明白で、長年「感想を書かずにはおられない」という気持ちにさせてくれていたとあるコンテンツが、今年の春に大きく変質したためである。*1
数年の間に70記事以上を生み出したくなるほどの情熱と愛を傾けていたシリーズが、ここまで激しく変容する日が来るとはやっぱり思っていなかったので、正直観劇ブロガーとしての自分の生命は軽く終わったなぁと感じていた。
あー、もう無理かもなって。
この感想を書き留めたい、言葉に換えたいと思わせてくれる対象がこの世からなくなってしまった。
このたとえようのない喪失感は、たぶん他の人にはなかなか伝わらない何かだと思う。
あの魂が震えるような衝動は、本当になにがあっても、もう二度と帰ってはこない。
永久に喪われたのだ。
とはいえ、心揺さぶられる何かに出会った時に「言語化したい」という欲求そのものが私の中から本質的に消え去ることは多分絶対にないので、
これからも書きたいと感じた感想は、ちゃんと書き残していきたいなと思う。
……こっちのブログ、日記用の別館だけど思いっきり観劇の話してますね。笑
なんにせよ、文章を書くことって本当に「訓練」でしかないのだ。
努力の積み重ねであり、日々の鍛錬の成果である。
なので、一度やめたらどんどん衰えていく。それが本当に一番怖い。
私は職業において自分自身が文章を書くことなんて全くなくて、だからこそこの活動(?)を何のためにやっているのかはたぶん一生わからないし、この言語化欲求の背景にあるものについては自分でも全く説明ができないんだけど、
それでも私は文章を書かなくなったら、自分が自分ではなくなるというひりついた危機感がある。生きるか死ぬかの問題なんである。
本当にこれ、なんなんだろうなぁ。
と同時に、Twitter(って書くよ、まだ)で日々言葉を残すことには、ちょっと疲れてしまった。
書き残すことそのものというより、読まれることに、というのが正しいかもしれないが。
どんどん上がっていく「コンテンツ」としての消費速度に耐えられなくなって来た感覚があった。
私が基本的に作品公式や俳優本人やメディア系のアカウントしかリツイートしないこともあいまって、
「ちょうどよい短文テキストとキュレーション的に適切な情報を供給してくれるアカウント」みたくなっている側面が大いにありそう。うん、自分で言うけど情報のキュレーション能力とサマリー能力がどっちも高すぎるように思います。
その「便利な存在」加減にさすがに疲れてしまったのだ。いや、そりゃ便利だと思うよ。余計なこと言わないし。笑
ツイートって、まとまって推敲した文章とはまた違う。その時の感情の色や動きがビビットに乗る、その即時性こそが魅力であり特徴だ。
だからこそ、やっぱり「消費」の速度はどうしたってものすごく、速い。
そうやって目まぐるしく展開していく言葉の流れのさなかに自分の感情を幅広く提供する前に、日々の心の動きとして書く言葉は、まずは一度自分だけのものにしたくなってしまった。大切にしてあげたくなってしまった。
Twitterのプロフィールを編集したとおり、そういうわけでいまは半ば意識的にツイートを減らしています。
……本当に、どこまでソーシャルネットワーキングが向いてないんだろうか!?笑
でもそうこうしてるうちにTwitter、しんじゃったからなぁ。Xってなんなんだよ本当に!
でも反対に、だからこそ、日記のほうも観劇その他の感想の方も、長文を置く場所としてのブログはしつこく続けていきたい。
もしもそれに付き合ってくれる人がいて、思い出したように、暇つぶしのようにでも読んでもらえるのであればとても嬉しいです。
基本的にはオープンインターネットを深く愛しているし、オープンな場で文章を書くことそのものはまだしつこく諦めたくはないので、
少しでも疲れにくい方法を選びつつ、未来の自分が読みたいもの=自分の文章を残せるように、エネルギーの使い方をシフトしていこうかなって思います。
……あれー!?すごい軽い気持ちで書き始めたのになんかめちゃくちゃ深刻な内容になっちまったぜ!笑
落ち込んだりもするけれどわたしは元気です、なので基本的には大丈夫です!*2