観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

この手で何を

いまは昼休みだけど、るろ剣全公演中止の件に朝から頭を殴られた気持ちのままで、ご飯を食べる気持ちにならない。

ミュージカル『るろうに剣心 京都編』公式

 

春に受けたあのエリザ全公演中止のショックを、少しは乗り越えたかもしれないその先にも、やはりまだ、こういうことがある。わかっていても正直わかりたくなんてないし、どうしたってこの現実に慣れっこない。

自分の辛さはもとより、推しが舞台に立てないことがあまりにも長く続いていることが、何よりいちばんつらい。

 

この状況の中で、推しに対して「いつか、きっと」という未来へ向かった言葉をかけ続けることすらも、躊躇う気持ちが生まれてくる。

その期待そのものが、重荷になってしまわないかとか。そうして「待ってます」と言ってくれる人の果たして何割が本当に数年先に待っていてくれるんだろうとか、そんなことに思いを巡らせてしまいやしないかと、想像している。

 

どうしたらよいのかわからない。どんな言葉を伝えれば。どんな言葉を使えたら正解なのか。正解なんてないことは百も承知の上で、何もできないことはわかっていて、それでもどうしたって、勝手に気持ちの上でせめて寄り添えるところがあれば良いのにと願うばかりだ。

 

 

公演が中止になったことについて、本当に謝らないで欲しい。だって、何も悪くないのだから。

でもその言葉はきっと、人前に立つ仕事を選び、人々の期待に応え夢を見せるという職業に自負心を持っていればこそ、出てくるものだとも思うのだ。

 

 

やはり、変わってしまったいまの世界においては、諦めざるをえない演劇的効果は多々出てくるのだろう。いままで通りの、思い描いていた通りの手法でステージを実現させることは、当初の想定よりもずっとずっと困難だということだ。

そこで変容していくこと、捨てていくものの先に、それでも新たに作り出せる表現はないのかと、死に物狂いで格闘していくフェーズになっているんだろう。

その過程において切り裂かれる美意識や表現へのプライドの痛みは、どれほどのものか。

だから簡単に捨てるべき、変わるべきなんて、言えるはずもない…。

できることとできないことの狭間、理想と現実との妥協点で、舞台はずっと苦しみ続けている。

 

 

ああ本当に、どういう言葉を使えばいいんだろう。

無力なことはわかっているけど。

できることがあればいいのに。

まりおくんが舞台に立っている姿を見たい…