ルーロを放つ
まるでなにかの呪文を使うみたいな書き出しですが、そうではなくてお掃除の話。
我が家には、引っ越す前の家にいるときに買ったのにも関わらず、あまりにも部屋が片付かなくて仕舞い込まれたままだったロボット掃除機があった。
それをめでたく、このたびようやく開放した。
…いや、掃除道具が「片付かないから使えない」ってめちゃくちゃな話なんだけど。
そして実際使ってみて「なんで今まで使ってなかったの?わたしバカなの?」と思ったけど。
うちにいるのはルンバではなくて、ルーロっていうパナソニックの掃除機。ころんと角の取れた三角形をしていて、白くて可愛い。それをさっきはじめて、我が家のリビングに放ってみた。
充電完了を確かめてスイッチをオン、わくわくしながらスタートさせると、なかなかにやかましい音を立てながら、ルーロは勇ましくリビングの床へと滑り出した。
ぶつかってから向きを変えるのではなくて、ぶつかる前にきちんとセンサーで障害物を認識して、くるりと回転して向きを変えては、またしゅるしゅると進む。おお賢い。
どういう仕組みなのか不思議だなぁと思うけど、これからの掃除のための地図を作るらしく、一見それって効率悪くない?って思うような謎のルートで、部屋中をうごうごし続けていく。
途中、ソファーのわきにおいてある加湿器の電源コードにさしかかったとき、あら、止まっちゃうのかしら?と思ったら、自分が停止するのではなく、むしろコードの方を加湿器から勢いよくぶち抜いていた。なかなかにパワーがある。
その後、段差があるから無理なのではと思っていたリビングと廊下の境目もなんなく乗り越え、予想外に別の部屋までガンガン侵入していったので、旦那さんとふたりで慌てて追いかけた。進撃のルーロである。
意志をもってずんずんと進んでいくその姿を眺めていると、なんだかひたすら「いじらしい」という気持ちになった。
ロボット掃除機=かわいい、って感想は前からよく見かけるなと思ってたけど、これはなるほどです。かわいいわ。生き物みたいなんだもん。
説明書には、「ルーロが自分で充電器に戻れるように、充電器の左右50センチにはものをおかず、スペースを空けてください」的なことが書いてあるのだけど、左右に50センチってなかなかじゃないですか?いや、スペースの都合上それは無理だわ…と思い、結果うちでは左右に10センチしか余分が無い位置に、無理くり充電器を置いていた。
この見事に条件を無視した設定で、ルーロは果たして無事におうちに帰れるのだろうか?と思ってハラハラしながら見守っていた。
すると、ルーロくん、案の定ぜんぜん帰る気配がない。いやもうそこ20回くらい通らなかった?みたいなところを、ひとりで熱心にウロウロし続けている。
「やっぱり狭すぎて、あそこがおうちってわからないのかしら…」と不安に思っていたら、単に掃除し足りていなかっただけらしい。
きっちり規定の60分間掃除をし続けたあと、ルーロはおもむろに充電器へと向かいはじめた。
そしてさながら駐車場でハンドルを切るがごとく、3回くらい切り替えしをして、充電器にくっつこうと試みている。
おお、どうか!?いけるのか!?と見守っていると、どうやら無事に正しい位置を探り当てたものらしい。
そろり、ぴたりと充電器にくっついて「ピロン」と完了音を発したルーロは、そのままおとなしく眠りについたのだった。…うむ、大変にかわいい。
というわけで、今日はただのロボット掃除機観察日記でした。
家の中、なんとも言えない雑然とした雰囲気がもっと減らせていれば最高なんだけど、それでも「急に家に人が来る」って仮になったとしてもさほど慌てないレベルに片付いているの、これはマジで人生における快挙だと思う…。
ステイホームで家の中が気づいたら快適になっていた人、きっとたくさんいるんだろうな。
本当は趣味のほうの本館のブログをがっつり書きたいんだけれど、ここのところなかなか気持ちと時間の合うタイミングがなく。。
そうこうしているうちに文章を書いてないストレスが溜まってきたので、とりあえず日記を書いた。満足。
祈るように
なにもできないし言えない、と思うときに、何か書かずにいられない矛盾はなんなのだろう。
文章を書くことは、わたしにとってはたぶん気持ちを逃す手段のひとつになっていて、どうしようもなくてなにもできない、という時に、なんだか逆説的にも思えるけれど、そのどうしようもない事実と自分とを、一度冷静に分離してみようと試みる行為の一つなのかもしれない。
本当に、ままならないなぁ。ただただしんどくて、当たり前なんだけどまじでつらいしびっくりした。昨日はさすがにたくさん泣いた。泣いてどうするんだという話だし、事実というか統計的にというか、持ち合わせる条件に照らせば、おそらくはきっと大事には至っていないのだと思う(思いたい)。自分でもそうわかってはいるんだけど、やっぱりしんどい。まぁ、そりゃあそうだよね…
今は心配しながら、ただ静かに遠くから思うことしかできない。心を落ち着けて、待っているほかない。いつだってそうではあるけど、これほど無力かと思うことも、なかなかなかった。
わたしが元気をなくしていても仕方ないし、何度も考えてきたことだけど、できるのは己の健康を維持することだけだから、しゃんとしていなければなと思う。そういうふうに言い聞かせて、大丈夫であるように調節できる範囲でまだ自分をある程度コントロールできるなら、今はその方が良いように思うから。
言葉は誰かを救えることもあって、だけど言葉が全てを救えると思うのは間違いであり傲慢でしかなく、では一体なんのために、なにを大切にしようと腐心しているのだろうと思うと、ただ呆然と立ち尽くしてしまう感覚になる。
守れるものがあるならひとつでも多くのなにかを守りたい。なるべくたくさんの人に傷つかないでいてほしくて、そう思うとき、本当になにもできない。
それでも、たとえそれが事実でも、まだその先を見ようとする気持ちから、なにかが生まれる瞬間があるのかもしれないと祈ってきたのが、人の営みなんじゃないかとさえ、今日は思った。
冬の抜けるような空の青さ、ふとふれた鮮やかなメロディ、遠くから聞こえる子どもの笑い声、ぎゅっと抱きしめたぬいぐるみのやわらかさ、日に干したあとのおふとんの感触。都会の街の夜の輝き、車窓から一瞬見えた目に染みるような緑、お気に入りのヒールが立てる小気味良い足音。
些細であたたかで、その人にとって大切なものたちが、寄り添っていてくれますように。
Please take care of yourself.
言葉が好きな理由
のひとつになっている思い出について、急に書いてみる。
その時、わたしは社会人2年目で、わかりやすくボロボロに疲れていた。上京して1年が経っていたが、それでも東京は全くもって親しみを持てる土地にはならず、新卒配属ガチャの結果適性とはかなり遠ざかった位置にあるとしか思えない日々の仕事は、ちんぷんかんぷんなままなのになぜか「できてる風」に進んでいて、プレッシャーとストレスに苛まれていた。しかもその頃はまだおたく前夜で本気の本気で趣味がなく、福岡から上京してきた友人がほとんどおらず、休みの日に美術館に頑張って出掛けては何を見にきてるんだかわからない人混みに泣いた。本を読むくらいしか楽しみがなく、つけていた読書日記は120冊を数えていた。
そんなふうにどうにもこうにも疲れ果て、朝だというのに溌剌さのかけらもなく、現実から逃れるような気持ちで、通勤電車の中で開いていた文庫本で、わたしはひとつの奇跡に出会う。
読んでいたのは、わたしが人生を救われたといっても過言ではないほどの影響を受けている敬愛する作家の人のエッセイ本で、巻末に読者から寄せられた質問に答えるQAコーナーがあった。
そこにまとめられている質問のひとつを読んだ時、あれ、なんだかこの人、わたしみたいだな、と思って、はっと気づいたのだ。それは、紛れもなく、約1年半ほどまえに、学生の頃にわたしが寄せた質問だった。
その事実に気づいた瞬間、あまりに驚いて、体が固まった。稲妻に打たれたような感覚、ってまさにこういう時に使うんだと思った。
目まぐるしい生活の変化に、投稿したことすらもう覚えていなかったその質問に、作家の人はお礼ののちに、ずばっと端的な、本質だけを返すような言葉で回答をくれていた。
その答えを読んだ時に、届くとは思っていなかった「言葉」が届く瞬間は、確かにあるんだと知った。まさしく奇跡でしかないと思った。
質問とともにしたためた、学生の自分が考えた拙いけれど懸命な作品への感想に、その作家の人は「そんな風に読んでくれてありがとう、伝わって嬉しい」という意味の言葉を、返してくれていた。
生活において限りなく、果てしなく遠いはずの相手にも、真実と感じる内容はこんな形でふと通じることがあってしまうのだと思うと、途方もない気持ちになった。
到底信じられないような思いで、そのあとの通勤時間は、ただ泣くことを堪えるのに必死になったことを覚えている。
その質問は、本になる前に実は先にその作家のWebサイトに掲載されていたのだ。Webに採用されて載った質問のうち、さらにいくつかのみが絞られて、文庫におさめられる仕組みだった。もともとまめにチェックしていたそのサイトも、社会人になりいつのまにか読まなくなっていて、わたしは自分の質問が採用されていたことに、それまで気づいていなかった。
でも、事実を知ったのが、あの瞬間、あの電車の中で、本当に良かったと思った。あのタイミングでなかったら、あれほどに「救われた」実感を、得ることもなかっただろうから。未来の自分のために、過去の自分が無意識に遠ざけていたのではないかと思うくらい、その出来事はどうしようもなく、救いになった。
なるべくなら良き願いを込めて言葉を使っていたいと思うのは、たぶんこの思い出に大きな背景がある。たとえ無駄に思えることが多くても、楽しいこと、面白いこと、笑えることのために、言葉を使い続けたい。
オープンな場で感想を語ること
わたしはしょっちゅうなんかしらの感想をインターネットに書いている。
書くことそのものが好きだし、受け取ったその先に自分の中で起きた感情の動きや思考の流れを、言語化するのが好きだからである。
というか、ものすごく心動かされた何かに出会ったあとは、その言語化作業を経ないと、どうしてもソワソワして落ち着かない。これはもう性。いい悪いとか得意/不得意とかを超えた、そういういきものとしての在り方、みたいな。本人にとってもどうしようもない種類のものというか。
そして、なぜそういう感想をオープンな場に書くことが多いかというと、わたしにとって「誰かに見られる場」であることが重要だからだと思う。
それは、単に自分の書いたものを見てほしいから、という意味なのではなくて、緊張感と責任をもって言葉を選び続けるためには、どうしてもオープンな場が必要な要素であると考えているからだ。
わたしは「誰にでも見られ得る場所」で言葉を使おうと思った時、より言葉の扱いに対して注意深くなるし、選び抜こうと真剣になる。結果として、よりよい文章、納得のいくものが出来上がるところが個人的にはあって、なので常にオープンな場で書いている。
つまり、わたしにとってよりよい文章とは、常にどこかに他者の目を意識したものということになる。ええとね、これは人からどう見られるかの評判や体裁を気にして書いているという話ではなくて、「主体に対する客体の存在を念頭に置いて初めて書けるものがある」という話なんです。説明ができてるのか不安なんだけど。(さらに、そんなものはなくても名文を書ける人はいるだろうと思うけれども。)
とにかく、そうしてオープンな場になにかを書き残すと、反応が返ってくるケースがある。そこにはポジティブなものもあればネガティブなものもある。ポジティブな反応に関しては恥ずかしいような気持ちもあるけれどやっぱりただ嬉しくて、読んでくれてありがとうございます、とすごく思う。
一方、ネガティブなものについては、受け取るとやはり思考がいったんは停止する。
そしてたぶん、その「ネガティブ」の中にもいろんなグラデーションがある。
仮に、単に愉快犯のように「わざと相手が嫌がることをぶつけてやろう!」みたいな意識でなされた反応なのであれば、おそらく取り合うだけ無駄である。
そういう当たり屋みたいな事故はおいておくにして、そうではない類いの、でも自分にとっては決して嬉しくはなかったな、という言葉が返ってきたようなとき。向こうはそこまで考えて発していないんだろうと想像はできるけれども、受け取る側にとっては結構なダメージだったな…みたいなとき。
そのケースにおいての振る舞いはすごく難しくて、たぶんずっと試行錯誤していくような気がする。
この話の難しいところは、つきつめると「じゃあ人に見えるところに書かなければいいじゃないか」という話にも繋がる気がしている点。
いや、そうじゃないんだよ、となると、やっぱり表で何かを書く以上、ある程度の齟齬や摩擦が生じても、それを事実として受け入れる以外ないだろう。
でもその上で、元になる感想を書いた人には、なされたフィードバックに対して傷つく権利もあるんじゃないかしら、と思うわけです。
「じゃあ表で書かなければいい」で片付けられないものが残った時。なされたフィードバックによって、自分の中に悲しい気持ちや怒りがもしも湧いたとしたら、それはそれで、感想を生んだ人にしか持ち得ない、権利なんじゃないかしら、と思うのだ。権利以外にうまい表現が見つからないんだけど。
この点、表明が難しくて。いまのインターネット(と雑にくくるが、的確かは自信はない)、なにか本人が望む結果とは違うものが起きた場合に、それに対して本人が「悲しい!」みたく気持ちを表明すると、何につけても「じゃあやるなよ」が二言目に返ってきがちな場所な気もしてて、果たしてそれだけでいいんだっけ?とかも思うわけです。摩擦が起きたらゼロにする、それだけで全てを説明・処理し得るのか、そんな単純なもんなのか?と思う。
兎にも角にも、上記に述べたようなそういう面倒ごとが生じると理解しつつも、まだお前はオープンな場で感想を書くのか?と聞かれると、
わたしは「うん、書く」一択なんだなぁと思ったので、この日記を書きました。
お疲れ様を言いたくて
ブログの使い分けですが、そんなに大っぴらに言わなくていいかな、みたいなごく私的な日記にとどまることをこっちに書いています。小声でこそっと話したいことはこっちに…まぁ、インターネットなので、実質関係ないんですけどね。笑
今週のSUITS2を見ていたんだけど、小笠原くんがお役御免になるくだり、とっても気の毒で胸が痛んだ。という日記。
だって、いきなり意気揚々と戻ってきた前任秘書に「荷物をまとめて今すぐ出て行って」って真正面から言われるんだよ!
いやあのさ、まずふつう先に挨拶とか!お疲れ様とか!いろいろあるでしょ〜!?なった。笑
おそらくは原作のアメリカ版を踏襲したのだと予想はしますので、致し方ないのだろうと思いつつ。
きっと、なんだかんだいってチカ先生と甲斐先生は、玉井さんをなるべく早くに呼び戻すことを前提として、緊急でとにかく誰かに居てもらうことを最優先に、派遣スタッフをアサインする判断をしていたのでしょう。なので彼らにとって小笠原くんは、ファーム(の中のチカ派)にとっての「内輪」の存在には、どんなに頑張って働いたところで、決してなり得なかったのだろうな。そしてあの感じだとさらに玉井さんはもともと業務委託契約なのかもしれないと思った。
…まぁそのあたりは憶測なのでいいのですけど、とにかくあなた方「内輪」のアレコレで急に人をやめさせ、その穴を埋めるために新たに人を雇い、仕事を依頼していたのだから、その「内輪」の世界に元いた人を呼び戻せて元どおり、みんな超ハッピー!…なのだとしても、そこから去ることになる相手に最初に伝えるべきはどうしたって「お礼」であってしかるべきなんじゃないのかなぁと思った。
だって、「出て行って」って、つまり蟹江先生が頻発するところの「Get out」だからなぁ。なにかまずいこと、気に食わないことをした相手に向かっていうかなり攻撃的な言葉だからなぁ。
小笠原くんは職務を果たしていただけであって、前任のツーカーな秘書に比べて至らないことはもしかすると沢山あったのかもしれないが、だとしてもそこに存在してることに関しては感謝されこそすれ、なんにも悪いことしてないはずなので、かける言葉として「出て行って」はあんまりだと思うよね。
正直玉井さんの件は、背景にいろんな感情のもつれも大きい辞める/辞めない騒ぎだったなと思うからこそ、「急な依頼で迷惑をかけたけれど、これまで代わりを務めてくれてありがとう」くらいは言っちゃれよ〜と心から思った。べつに小笠原くんは君の場所を望んで奪っちゃいないんだぞ。。
内輪を愛し、仲間と結託する強さがあるチームはたしかにすごく強いかもしれないけど、本人たちも気づかないところでとかく無自覚に排他的になりやすい側面もあるな…と、社会人生活をしていて思うことが過去にあったから、小笠原くんのあの追いやられ方にはガチで心が痛んでしまった。…まじめか?(まじめなんですよ)
好意的に解釈するならば、彼らにとっての上杉という強大な敵の存在があまりにも身近すぎるがために、内輪の「外」の事象に対してはケアする余裕がないのかもしれないですね。
でもそうして突然の退席を促されたあとの小笠原くんは一切オドオドするでもなく、そうですか、ではそれなら、といった風情ですっと切り替えも素早く立ち上り、堂々とすたすた歩み去って行って、かっこよかったです。それでいいと思います。次行こ、次〜!
小笠原くんなら、もっと生き生きたのしく働ける職場がきっとすぐ見つかるよ!幸あれだよ!お疲れ様でした!
…とどうしても言いたくて、Twitterで書くと長くなりすぎそうだったので、ブログに書きました。書いたら気が済んだので寝ます!
(マジレスしなくて良いところにしてしまったやつです。笑)
この手で何を
いまは昼休みだけど、るろ剣全公演中止の件に朝から頭を殴られた気持ちのままで、ご飯を食べる気持ちにならない。
春に受けたあのエリザ全公演中止のショックを、少しは乗り越えたかもしれないその先にも、やはりまだ、こういうことがある。わかっていても正直わかりたくなんてないし、どうしたってこの現実に慣れっこない。
自分の辛さはもとより、推しが舞台に立てないことがあまりにも長く続いていることが、何よりいちばんつらい。
この状況の中で、推しに対して「いつか、きっと」という未来へ向かった言葉をかけ続けることすらも、躊躇う気持ちが生まれてくる。
その期待そのものが、重荷になってしまわないかとか。そうして「待ってます」と言ってくれる人の果たして何割が本当に数年先に待っていてくれるんだろうとか、そんなことに思いを巡らせてしまいやしないかと、想像している。
どうしたらよいのかわからない。どんな言葉を伝えれば。どんな言葉を使えたら正解なのか。正解なんてないことは百も承知の上で、何もできないことはわかっていて、それでもどうしたって、勝手に気持ちの上でせめて寄り添えるところがあれば良いのにと願うばかりだ。
公演が中止になったことについて、本当に謝らないで欲しい。だって、何も悪くないのだから。
でもその言葉はきっと、人前に立つ仕事を選び、人々の期待に応え夢を見せるという職業に自負心を持っていればこそ、出てくるものだとも思うのだ。
やはり、変わってしまったいまの世界においては、諦めざるをえない演劇的効果は多々出てくるのだろう。いままで通りの、思い描いていた通りの手法でステージを実現させることは、当初の想定よりもずっとずっと困難だということだ。
そこで変容していくこと、捨てていくものの先に、それでも新たに作り出せる表現はないのかと、死に物狂いで格闘していくフェーズになっているんだろう。
その過程において切り裂かれる美意識や表現へのプライドの痛みは、どれほどのものか。
だから簡単に捨てるべき、変わるべきなんて、言えるはずもない…。
できることとできないことの狭間、理想と現実との妥協点で、舞台はずっと苦しみ続けている。
ああ本当に、どういう言葉を使えばいいんだろう。
無力なことはわかっているけど。
できることがあればいいのに。
まりおくんが舞台に立っている姿を見たい…
優等生の書く読書感想文みたいな文章しか書けないな
と、ずっと思っている。これはとっても人を面食らわせる出だしだなと思うけれども、なんかとってもそうだな、と常々感じている。深夜なので何を書いてもいいと思っている往年のブログの使い方をしています!
国語の成績はいつだって良かったけど(※インターネットで文章を書くオタクはたいていそう言う)、作文に関しては褒められた記憶がない。少なくとも小学校~中学校の間に、文章で褒められたことは特にない。
自分でも、自分が書く作文「つまんねーな」と思っていたことを、実はよく覚えている。
こう書くのがたぶん正解なんだろうな、とりあえず冒頭で問題提起して、自分の中でそれっぽく考えて、最後に結びっぽいものを付け足すと形として完成するな、と思うからそのように書くんだけど、なんかそれで血の通った文章になった感じはなくって、完成したものを読んでて、自分でもつまらないなぁと思っていた。無個性っていうか。圧倒的いい子のフリをした変に破綻のないそれっぽい文章が出来上がって逆に不気味というか。
…というかなんでそんな年から厭世的な作文術(?)を身に着けていたのだろう…?遠足の思い出やらを書いていた低学年の頃はさすがに違ったと思うけど、4年生頃にはもうこういう作文を書いていた記憶がある。
たぶん成績をもらう上では別にそれで問題なかったんだろうけど(先生としても採点は楽そうだよね)、かといって特段褒められたり賞をもらったりできないのは比較して悔しかったし(ふたつ上の姉はたいそう作文がうまかった)、でもこれはもう、そういうもんなんだろうなぁと思っていた。
閉じた古いブログから数えると、ひたすら観劇の感想を書き続けて8年目になるんだけれど、前よりは流石に、適切に、という意味で「うまく」書ける場面は増えた気はする。相変わらず字数は削れないのが最大の弱みだけれど、少なくとも破綻したものは書いていないと思う。
だけど語彙が特に豊富なわけでもないし、言い回しに個性があるわけでもない。それはすごく感じる。
感想ブログを書く上で「読む人をなるべく不快にさせない」という不屈の誓いをひとりで勝手に立てているのだが、しかしそのためなのか、書くものに「優等生くささ」がずーーっとあふれているように本人としては感じられており、つまり生み出すものが無個性な部分はたぶん、本質として変わってないように思うのだ…。うう…。
(その字数の長大さが個性と言われると、それはそれですみませんという気持ちになるんだけど…いやでも事実、そうなのかもしれない…!笑)
わたしは明らかに、目をぐっと引きつけるような名文を生み出せるタイプではないと思う。そういう才能はまじでない。
しつこさで書きたいことを書き留める、その継続力になら、自信が持てるような気がするけど、強みはそのしぶとさくらいじゃなかろうか。
なので、閃光を放つようなまぶしさがありつつ、骨格もしっかりとした名文にインターネットで出会うと、うわ~すげえな~!と思うと同時に、そういうものが生み出せなくて悔しいなと思う。面白い文章を書ける人、世の中に本当にたくさんいてすごい。
でもこうやってうだうだぐじぐじ言い始めても、結局は単に「書く」ことがすごく好きなので、うまくなくても楽しいし書きたいから書く、そこに帰着するのである。
…いや、じゃあもうそれでいいじゃん!?なんでこの日記書いた!?
そして、感想ブログに書く方の文章は褒めてくれる人もいて、それはとてもとてもありがたいです。嬉しいです。
書き残した「作品の素晴らしさ」が時間が経ってから新しく誰かに伝わるのは、すごく嬉しいのです。書いたことに意味があったなと思える。意味不明な卑下だけだと気分が悪いので、ちゃんともらった褒め言葉はうけとっています、をここで表明したかった!
…そう結んだことにより本格的に何が書きたい内容なのかわからなくなったけど…、ええと、つまりは文章もっとうまくなりたいな!
でも、書いても書いても届いた気がしないのは、それはそれで、楽しいのかもしれない。
なんかその感覚が18歳頃と変わってないのはどうなんだ…と思わずにはおれないけど、でも文章書くのってやっぱりすごく楽しいんですよね。
ほんとこれ、なんでなんだろう。
(結論:楽しいのが一番、という話でした。まじで世話ないな!)