観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

many of 好きズ

いてもたってもいられなくて、さらっと文章を書いてみる。明日のことを考えると、どうしても落ち着かない!


「好き」という感情には色々あって良いと思う。
あぁ、これぞ!と確信するど真ん中の好きだったり、
じわじわといつのまにか内面を染められていく好きだったり、
殴られたような衝撃と共に訪れる好きだったり、
そんなつもりはなかったのに気づけば目が逸らせなくなっている好きだったり、
本当に多種多様、色々あって良いと思う。


自分の中の原点に向き合っているのか、
新しく出会った魅力に取り憑かれているのか、
ずっと大切に思い続けてきた存在を変わらずに眩しく見つめているのか。
そのタイミングその時々、その人の中にある感情だけが、ただひとつの動かせない事実としてそこに在る。それだけで良い、ということにしておいてほしい。少なくとも私はそうする。

おもねったり遠慮したり、変に隠したりしないで、ただ思うがままに今そこにある感情を大事にできたら、私にとってはそれが一番幸せな気がする。
だから、真っ直ぐに「これが!!!好きなんだよ!!!」をぶち上げている人を見ると、私はすごくホッとします。どこか勝手に励まされる。
そしてその光景に出会った時、心によぎるいくつかの感情を想像して「わかる」と感じることもあるから、その時はそっと陰ながらのエールを送ったりしている。


同じもの(人)を好きでも、同じように好きであるとは、全くもって限らない。
「好き」という感情はなんだかんだ言って大変に個別性の強いものだと思うから、
やっぱりわたしはその「好き」という感情そのものを、ひとり守り育てる孤独な戦いがあるような気がする。(たぶん前にもどこかでこの話は書いた。)
自分の「好き」を誰かと共有するのが喜びになる人がいるように、
その戦いを通じて、自分の中の大切なエリアを守ることが心の支えになる人もいるのです。


私の場合、自分のこのスタイルが蛇蝎の如く嫌われる*1ケースが容易に想像できてしまうので、
合わないときは「もうそっとしといてね、俺のことは見ないでくれよな!」と言い続けることしかできないんだけど。

少なくとも、私は他人の「好き」を規定しようなどとは全く思わない。ジャッジしようとも思わない。私のことも、同じように放っておいてくれたら十分です。



……なんかこうして前提を飛ばして書くと、人によってはすごい「実生活のリアルな浮気かな!?」みたいに受け取られる可能性もある雰囲気に仕上がりますが、
全然そんなことなく、ここまでぜんぶ趣味の話してます。この人ってばいっつもそう。笑


明日はひっさびさのとんでもバカスケジュールをやるので、今日は気合い入れて寝るぞー!!!なんでこんなことになってるんだろー!!!笑
でもなんか「……生きてるー!」って感じするから、私は本当にこういうとこがいつまで経ってもダメ!笑

*1:るろ剣京都編参照

他人に興味がないのではなく、他人を思い通りにすることに興味がない

言葉の選び方が不用意に過ぎて、「他人に興味がないんです」と言ってしまうことが以前からよくあったんだけど、これってどう考えてもものすごく誤解を招く表現だなと思い反省したので、使うのをやめた。
人によってはおそらく私がイメージするのと真逆な意味で捉えられたりするので、なにかもっと適切な表現はないものか、と感じていたが、ようやくわかった。

他人に興味がないわけではない。
他人を「自分の思い通りにする」ことに興味がないのだ。


誰か他の人の考えを変えたいとか、影響を与えたいとか、そういうふうに全く思わない。
おそらくはその延長線上で、人の噂話にも興味がわかない。
もっとやりたいこと、時間を使いたいことはいくらでもある。
なのでなにかの話題に対して「誰々さんはどうして私の意見に賛成してくれないんだろう?」みたいな気持ちがなかなか湧きにくい。
自分と同じものを他人にも好きになってほしい、という欲求も、こう見えてたぶんものすごく低い。
感想を大量に書いてるくせに?と思われるだろうし、時折いわゆる宣伝・布教系のツイートだってするじゃないかと不思議に思われそうなんだけれど、
感想については「自分でもわからないが書かないと死ぬ!」みたいな衝動に突き動かされて書いており、単に書きたいだけなのであり、布教は実は全然してないと思う。
なにか好きな作品の配信や放送がある時は今が世に広がるチャンス!と思ってその事実を全力で叫ぶけれど、少しでも認知が広がったら嬉しいというだけだし、その結果自分と同じ感想を持つ人が増えたら嬉しい、と思ったことは全くない。
だって、人は人なんよ。自分じゃないんよ。それで十分なんよ!

一緒じゃないと不安・満足できない、の反対で、
「私たちっておんなじだよね」みたいな笑顔を向けられるとわぁぁ!と叫びながら吹っ飛んで逃げ出してしまうところがある。同調圧力、差し向けられると命にかかわる。
いつからそうなのかは覚えてないけど、年齢が上がるにつれてその傾向が強まって、なんだかいつのまにか、こんなふうに仕上がってしまった。
なのでよく思うのが「自分はソーシャルネットワーキングがあまりにも苦手だな」ということだったりする。こんなにもツイ廃のくせに。
言葉を虚空に叫ぶことはいくらでもできるけど、ネットワークの構築は不得手。とことん向いてない。
毎日、私はTwitterの中で岩山にかじりついて気の済むまで遠吠えをしている。そして風に乗って流れてくる周波数の同じ遠吠え同士でたまにセッションできるくらいの感覚が、とってもちょうどいい。


たぶん誰しも経験あると思うんだけど、
「自分が好んでいるものや生活様式について興味を持たれる→説明した結果、それを否定されたりひどいと軽く馬鹿にされたりする」みたいな流れ、ありますよね。
20代前半に、その類の出来事がなんだか立て続けに起きた時期があった。
いやなんで聞いたん?みたいな。いやなんで私の人生否定されないかんの?みたいな。

そのあれこれがよほど嫌だったのだろう、
自分がされて嫌だったこと=興味を持ってほじくり返す、を他人に対して行うことを全力で忌避した結果、
「他人に興味がない」発言をするに至ったような気がする。

私にとってはそれは精いっぱいの誠実さで、周りに対して何かこちらの考えを押し付けるつもりは一切ありませんよ!の宣言なんだけれど、たぶん人にとっては真逆に捉えられることがある。昔はそれがよくわからなくて不要な軋轢を生んだりしたけれど、でも今考えるとそれはそれで当然だなと思う。
そういうつもりがないのだとしても、その言葉の選び方では何かを切り捨てているように聞こえると思うから。なので、それはやめようと思った。
少なくとも目の前の人に対して興味がありませんと言い放つような蛮行はしてないつもりなんだけど(そう思いたい)、だとしても不要に誰かを傷つけたりすることのないように気をつけよう…と思えるくらいには大人になった。

それこそ、積極的に他人に興味を持つ態度こそが、誠実さの表明であるタイプの人もいると思うのだ。
それは私とは正反対だけど、価値観は異なっていて当たり前だ。そしてそんなふうに異なる価値観の両者が同居している状況こそが、多様性ってものなんだろう、きっと。


たぶん私が言いたいのは、
「干渉はしません、尊重をします。そのために必要な距離がある場合は、積極的にとります。」
ということなんだと思う。
それくらいの感覚でいられるのが、精神衛生にとても良いように思う。

実はカジュアルに内臓から

血が出ているんですよね〜!という話。
読む人をいきなりギョッとさせるそんな書き出しはヤメロ!(すみません)


あんまり表立って詳しく書くことでもないかなぁと思ってたんだけどここのところ調子が悪すぎて、書くと自分の気がまぎれるという理由で書きます。

わたくし数年前から潰瘍性大腸炎という輩にかかずらっており、そいつがここ2ヶ月ほど大変機嫌が悪くて困っております。
(以下ところどころビロウなお話を含むので、食事中の方などは読まれませぬよう!笑)

潰瘍性大腸炎とは

以下、下記サイトからの引用。

潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜(最も内側の層)にびらんや潰瘍ができる大腸の炎症性疾患です。特徴的な症状としては、下血を伴うまたは伴わない下痢とよく起こる腹痛です。病変は直腸から連続的に、そして上行性(口側)に広がる性質があり、最大で直腸から結腸全体に拡がります。

症状などは上記に書いてあるとおりで、腸の内側が炎症を起こし、下痢や腹痛に繋がる。
そしてこの病気、国の指定難病である。
原因不明なため根本的に完治させられず対処療法しかできないという意味での難病指定だそうなんだが、難病って言われるとやっぱりインパクトがある。診断されたときはめちゃくちゃびっくりした。
わたしは約7年前に発病したんだけれど、端的に言うと「血便が出る」ことで気づいた。
最初は「いやだわ痔かしら!?」なんて思ってた。それくらいほかの自覚症状がなかったのだ。
でも別にお尻痛くないんだよな…痔なら痛いはずだよな…とかなり不思議に思いながら、恐る恐る消化器内科と肛門科を併設してるレディースクリニックにかかったところ、潰瘍性大腸炎の診断になったのだった。

この病気、国内の患者数は16万人を超えており(平成25年度末の数値だそうなので今はもっと多そうですね)、なおかつ発病したとて命に関わるような大事に至ることは稀らしい。
難病といえど、対処法もはっきりと確立されている。
しかしそれでも「人生でこの先、治ることのない病気にかかってしまった」事実はだいぶショックで、診断を受けた直後は流石に泣いたことを覚えている。

どうやって治療するの?

完治はさせられないかわりに、服薬によって「寛解」という症状の落ち着いた状態を維持することはできる病気である。
発病からすぐ、わたしは最初に処方された薬によって、数週間で症状があっさり消えた。
そこからの数年間は、毎日薬を飲み続けている。この服薬は、たぶん基本的に一生続く。

発病後はこの服薬に加えて、経過観察のため3か月に1回の大学病院への通院+年に1回の大腸内視鏡検査を必須ルーティンとして続けている。
なんかこう書くとかなり大仰に見えるけど、むしろこんなもんで済むんですよ。なので当人はわりとケロッとしている。

症状がないと薬をサボりだしてふたたび症状が出てしまう(再燃というらしい)患者さんも多いそうだが、この数年間ほんとに毎日めちゃくちゃ真面目に薬を飲んでいるので、サボってなくて自分偉い!と思ってるくらい。
この通り、たとえ難病と言われても、薬さえ飲んでいれば別に健康体でいられるので、年1の内視鏡がだいぶめんどうだけどそんなに気負う必要もないな〜!という感覚で過ごしてきた。

怪しくなる雲行き

毎年夏に受けている内視鏡検査では、去年は「全く異常なし、腸の内壁組織を取って検査する生検も不要」というたいへん優秀な成績だったのだが、去年の12月半ばあたりから、急に血便が復活してしまう事態に見舞われた。
本当に原因不明で、ある日突然またトイレットペーパーに血を見ることになった。
最初は気のせいだと思おうとしてたけど、まあ当然そんなはずはなく。。
原因がわかっていてもやはり血を見るとギョッとするので、精神的にはダメージがある。
だって排便のたびにトイレットペーパーにもれなくついてくる血…いや、ふつうに考えて、そんなの誰だっていやだよね〜!?笑
これは笑い話なんだけど、生理中なんて何の血かよくわからない気持ちになりますからね!「え、なにこれ、穴という穴から血が?ウケる!」みたいな。(ウケない)(柄にもなくビロウでまことに申し訳ございません)

この出血、年内におさまったらよいな…という目論見は残念ながらはずれてしまったので、観念して年明けすぐに予約外で病院にかかった。
先生に症状を説明して服薬量を2倍にする処方をしてもらったのだが、しかしそこから1か月半経つ今も、まだ絶賛出血している状態が続いてしまっている。まさかこんなに長引くとは!

とりあえず明日は通院日なので、そこで多分薬を変えてもらうなりの対処になりそう。
今までずっと効き目のあった薬でどうにもならない事態がいきなり来たりするのもなかなかに厄介だし、全国的に起きている薬不足はけっこう深刻みたいで、潰瘍性大腸炎の治療薬はものによっては欠品もしているようなのでちょっと不安。

以下は最初に貼ったサイトからの再引用なのだけど、

この病気は病変の拡がりや経過などにより下記のように分類されます。
1)病変の拡がりによる分類:全大腸炎、左側大腸炎、直腸炎
2)病期の分類:活動期、 寛解
3)重症度による分類:軽症、中等症、重症、激症
4)臨床経過による分類: 再燃寛解型、慢性持続型、急性激症型、初回発作型

分類で考えると、私は「直腸炎」(大腸には炎症が出ていない)で、寛解と活動を繰り返していて、基本は軽症で済んでおり、今のところ「再燃寛解型」ということになるんだと思う。

普段はどんな感じなの

なんともない時は、本当に単なるただの健康体である。好きなものを食べられるし少量ならお酒も別に絶対ダメというわけではない(飲まない方がいいとは思うけど)。
ほんと、薬さえ飲んでればオッケー!に尽きる。

しかし血便は出ずとも、発病後はお腹の調子が悪くなりやすくなった。
すぐ下痢をしてしまうので、調子が悪いと「お腹の痛みで飛び起きて夜中にトイレに駆け込む」みたいなことが起きる。
去年の今頃は「血便は全くないが、ひたすらお腹を下し続ける」みたいな体調が3週間近く続いた時期があって、それもそれでだいぶ気が滅入った。
私の場合はお腹の具合が悪いと、なんというか体の内側からどんどんエネルギーが漏れ出していく感覚になる。力が入らなくて、メンタルがかなりやられてしまうので、それがしんどかった記憶。

今は反対にさほどひどい下痢になることはあんまりないんだけど、炎症の結果生じている粘液のせいで、便意がとにかくめちゃくちゃ鋭角に刺すようにやって来るのでそれが大変。本当に笑えるくらいに急に、しかも深刻に来る。
だってものを食べると5分も経たずに便意が訪れたりするのだ。いや、流石にどうなってるんだよ!?腸内で到達するの早すぎねえ!?って思う。(メカニズム謎すぎます)
その結果どうしても頻繁にトイレに行きまくらねばならず、さらにそのたびに血を見る羽目になるので、
今はただひたすら「はやくおさまってくれんかね!?」の気持ちでいっぱいになっているのであった。
とりあえず今は在宅勤務でありがたい。だってそんな頻繁に職場でトイレ行くのも大変だものね…。この点でつらさを抱える患者さんも多いんじゃないかなと予想する。。トイレ事情、エマージェンシー!な時にはほんとQOLに直結する一大事だと思う。

「健康」について思うこと

一般的に見てものすごく健康だった瞬間が、私はたぶん人生にあまりない。
若いころの私は、「体力には自信があります!」な人の真逆…不定愁訴の総合デパートみたいな体調の思春期だった。
若さゆえの起立性低血圧と自律神経失調症に悩まされまくっていたから、
わかりやすく「元気!」みたいな状態が連続して当たり前のものとして自覚できるようになったのは成人してからだし、社会人なりたてのころは胃腸炎や気管支炎などでダウンしまくっていたので、安定した体調を維持しやすくなったのはむしろここ数年になってだったりする。


こんな感じで持病があれど、バカみたいに行動力あるときはあるし、元気な時は元気だし、
自分の中の「健康ライン」がわかっていれば特に気に病む必要はないと思って過ごしている。
今は残念ながらその健康ラインを割ってる状態なので(そりゃ血便が出てりゃな…)、早いとこ落ち着いてくれたら嬉しいなという感じ。


本人にとってどうにもならない体の不調っていきなりやってくるものだ。
なにかしらの理由で元気じゃない人が身近にいたら、ちゃんと寄り添えるようでいたいなと思う。
そしてどんな時も、まずはTake care of yourself! なんだと思います。
心身共に健やかだと自分が思える状態を、なるべく保っていられたらラッキーでハッピー。
というわけで我が腹よ、そろそろ機嫌を直してくれたら嬉しいです!

2021年に読んだ本と漫画まとめ

2021年に読んだ本+漫画を振り返っておきたくて!
新刊かどうかは関係なく単にわたしが読んだもの(の一部)です。再読を含みます。
ストーリーがあるものについてはネタバレはしないよ。本の公式のあらすじでわかるレベルのことしか書いてないのでご安心ください。

エッセイその他

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー/ブレイディみかこ

ブレイディみかこさんの著作を初めて読んだ。
とかく「分断」という言葉が頭をよぎることの多かった年に読めてよかったなと思う本。
「共感」の取り扱いがものすごく下手くそな私は、この本で出会ったempathyという単語にちょっと救われた気がする。
日本の中でいう共感って、いつのまにか同調圧力にすり替わっていることが多い気がして。
そうではなく、あなたと私は違うけど、あなたの気持ちや立場を想像することはできる。想像力がいかに大切か…という内容を受け取った気持ちになってホッとした。
今年の9月には2も出たのでそちらも読了。

一度きりの大泉の話/萩尾望都

とんでもないものを読んでしまったな…と読了後うめいた本。
こんなの読んでしまったらもうなんにも言えなくなる。
なにかに深く傷ついたときに、それをどう乗り越えたり、はたまた乗り越えなかったりするかは、全てがその人自身にかかっているのであり、
言ってしまえばそれこそが究極の自由なのかもしれない、と思う。
傷ついたことに「わたしは傷ついた」と表明するのは魂の自由さの象徴なのかもしれません。

この本を萩尾望都先生が書かれるきっかけになった(と書くと正確ではないけど、大泉サロンをとりまくムーブメントのきっかけではあるので)「少年の名はジルベール」をなぜか私は刊行当初に読んでいたので、
余計に衝撃が大きかったです。

萩尾先生のようなレジェンドに「共感する」という言葉を使うのがおこがましすぎるし、さっき書いたとおりそもそも共感とは?となってしまうんだけど(しつこい)、
それでも「おっしゃりたいことがわかりすぎます」と思いながら読んでいました。
すぐに読みたくてついKindleで買ったんだけどたぶんそのうち紙の本で買い直します。
萩尾先生が、ただ創作だけに集中していられる環境がどうか叶いますように。

女子をこじらせて/雨宮まみ

存在はずっと前から知っていたけど著作を読んだことのなかった雨宮まみさんの本をKindle Unlimitedきっかけで初めて読んだ。
どうしようもなくひりひりした……。
これもまた、例えば10年違うとそんなに目に映る世界が違うのかと、絶望まじりにくらくらする思いがする一冊でもあった。
生きることをどこまでも深く深く、ペン先が紙を突き破るような勢いで書き綴られる雨宮さんの文章。
この生命力に溢れた素晴らしい文章を書く人が、もうこの世にはいないのかと思うと、どうしても寂しくて、もっとこの人の書く文章を読みたかったな、という気持ちで涙が出てしまう。

エネルギーが必要なので立て続けには読めなくて、「女の子よ銃を取れ」は途中で止まっています。また今度読もう。

吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる

タイトルどおりそのまんまの本!
帯に、

「厳しすぎ!」という人と、「大好き!役立ちました!」という人がはっきり分かれた珍しい本です。

とある通り、本当に受け取る人によるだろうなと感じる一冊。
わたしは後者なんですが、そもそも最初の悩みへのお答えの始まり方からして、一切の手加減がない…!

Q.仲がいい友だちに素敵な恋人ができたり、結婚をしたり、子どもを産んだり、好きな仕事をしていたり、イキイキとしている姿を心から祝えないときがあります。大切な友だちのことを妬んでしまうときは本当に苦しく、罪悪感も感じます。こんなとき、何か対処法はありますか?

A.妬んだ段階でそもそもが仲がいい友だちじゃないのではないでしょうか、本当にこれに尽きると思います。
自分がその人のことをどんなに大好きでも妬んでしまった段階で、仲がいい友だちという距離感を超えてしまっている。私はそう思います。
(以下回答が続きます)

出だしの一発目からコレで、あまりにも!なので、読んだ瞬間つい声に出して笑ってしまった。たしかに厳しすぎる!という声は出そうだけど、どうしても「ですよね~」と思って読んでしまう…。
友人関係って、若いうちだけ悩むかというとそういうもんでもないし、今とくに悩んでいなくても総合的にいろいろな示唆を得られる場合が多そうな一冊だなと思いました。


そしてこの感じ、過去にどこかで読んだ…と記憶をたどって思い出し、ちょうど10年ぶりに森博嗣の「自分探しと楽しさについて」をついでに再読。

10年前に読んだときは、それこそ目からウロコが落ちまくるような、雷に打たれたような衝撃を得た本だったのだけど、
今読んだら、普段自分が考えて行動している時の考え方にそっくりな話が展開されていて、そのことにものすごく驚いてしまった。
こういうふうに考えればいいのか!と驚いて受け止めた内容を、10年かけて無意識のうちに自分の中で内面化していた、ということになりそう。
それってすごいことじゃないですか?文章によって与えられた影響の大きさに感じ入ってしまう。
そんなつもりで読んだわけではなかったけど、人生に大きなインパクトを与えられた本だったのだなぁと、なんだかしみじみしてしまった。

少し本筋から離れる内容なんだけれど、最後の方に「金がかかる楽しみを目指す人は、金を得るだろう。」と書いてあったのには、自分のことすぎてゲラゲラ笑った。予言されていた。
存分に趣味を楽しみたい!と思えば人は転職もするものです。

小説

王とサーカス/米澤穂信

久々に読んだ米澤穂信。もう、びっくりするくらい面白かった。
米澤穂信作品に特有の、ざらりと心に引っかかる「なにか嫌な感じ」が、読後感としてはほぼないと言えそうで、かなりなレアケースだと勝手ながら思う。
さよなら妖精」に登場した大刀洗万智が大人になった姿を描く作品。
新聞記者をやめ、フリーの記者として初仕事に向かった先のネパールで、彼女は思いもかけず王族殺害事件に出くわし、その事件の真相に迫ろうと異国で孤軍奮闘する。
その足取りが普通に無茶でシンプルにスリル満点で、ミステリーとして抜群に面白いし、
読んでいる間中ずっと、訪れたこともないはずのカトマンズの街の埃っぽい匂いを感じていた。
アジアの異国に流れる独特の空気を、否応無しに肌で思い出す感じ。(紛らわしい書き方をしたけど、ネパール以外の東南アジア諸国は何箇所か行ったことがあるので)
ただただ筆力に唸った。前後作を知らなくても楽しめるつくりなので単品としておすすめです。

しかしその後、この流れでウキウキして読んだ「真実の10メートル手前」と「満願」は、しっかりと嫌な感じが残ったので笑ってしまった。うん、やっぱそうよね。

薔薇のなかの蛇/恩田陸

なんと理瀬シリーズ、17年ぶりの新刊!だったらしく。出てしばらく経ってから電車の車内広告で知り、思わずその広告を三度見くらいした。
イギリスの古い貴族のお屋敷に招かれた理瀬が「祭壇殺人事件」に巻き込まれていくお話。
理瀬は今回ゲストの立場で語り手ではないので、彼女の怜悧なまなざしを直接味わうことができないのはちょっと寂しい!
でももう理瀬シリーズの続きがこの世に存在している事実だけで十分幸せなので、書いてくれてありがとう~!の気持ち。
ひとことでいうと雌伏の時、という趣の理瀬でした。また続きが読めますように!

灰の劇場/恩田陸

作中に出てくる語り手である小説家は、半分以上恩田さん自身の姿なのだろうなぁ、と感じる。
モチーフになっている三面記事は、実在した新聞の記事なんじゃないかなぁ、と。
自殺とみられる死を遂げた40代の女性二人は、学生時代の友人同士で、ともに独身でアパートに同居していた。
ある日新聞で目にした、とある女性二人の死を扱ったごく小さな記事の存在がなぜか長年忘れられず、
もはや取り憑かれたように、ある種偏執的に彼女たちの死の背景に思いを巡らせ続ける小説家。

抜群に面白いタイプの恩田作品ではないので(確実に読者を選びます)、広く勧めるかというとそうでもないんだけれど、私は彼女の作品は全部読むと決めているので満足でした。
その新聞記事が掲載されたという90年代なかばと2021年との間には、思った以上に大きな隔たりがあるのだなと感じさせられる描写がとにかく多く、そちらへの驚きが強く印象にのこった作品。
なんていうのか、社会に出ようとする女性にとって、看護師や教師などの専門職以外だと「腰掛けの事務職」しかほぼ選択肢のなかった時代って、ほんの20~30年前の話なんだな…と思うと、なんだか身につまされた。

スキマワラシ/恩田陸

とある特徴のあるモノに触れると、そのモノの持つ記憶が意識に飛び込んできてしまう特異体質の青年が主人公。
読後感について書こうとしたことを書くと、人によってはネタバレになるな…と思ったので何も書けなくなってしまった。笑
主人公の語り口は好み!一人称で描かれる恩田作品はわりと珍しいんですよね。

展開について想像がつく…とまではいかないのだけど、「こうなるかな?うん、やっぱりそうなるよね!」みたいな結末ではあったので、予想の範疇内におさまってしまったのがちょっと物足りなかったかなぁ。
しかしそれを具体的に言うのもネタバレになるので、何も書けない…。笑
もうちょっとスペクタクルかな?と思ったけどそうじゃなかったです。

今年じゃなくだいぶ前に読んだやつですがついでに紹介すると、
ここ数年で出た恩田作品のスペクタクル系統だと「夜の底は柔らかな幻」が抜群に面白いと思ってます。

漫画

大奥/よしながふみ

10年以上前に前半の数巻だけ読んでいて、続き気になる~と思いながらそのままになっていたのを、完結をきっかけに一気読みしたんですが。
もう、本当になんなんですかね……!?
エンターテイメントというか、フィクションの可能性の果てしなさに、とことん焼き尽くされました。
ありえんくらい泣きながら読んだな…どの時代の将軍にも大奥総取締にも、癒せぬ痛みや誰にも踏みにじれない誇りが同居していて、
本当によくこんな物語を織り上げることができるよなとあっけにとられてしまった。
最終的に、江戸時代って実はこっちが正史だったんじゃないか…?ってなってしまう。どうなっとるんじゃ。

残酷な神が支配する/萩尾望都

これも10年くらい寝かしていた漫画でした。2巻まで買っていたんだけどあまりの辛さにギブアップしていたのを、覚悟を決めて最後まで読んだ。
「救い」ってなんなんだろうと思わずにはいられなかった。
どうしてそっちに傾いてしまうのか、いくら歯がゆくやるせなく思ってもどうしようもできない…
自己決定権みたいなもの、己の存在を己が許すところに辿り着けるかどうかという話になると、本当に外からは手の施しようがなくて、
だけどだからといって手を離していいわけではなくて…
これを描こうと思い、実際に最後まで丹念に描き切った萩尾先生の凄まじい胆力にただひれ伏したい気持ち。

かげきしょうじょ!!/斉木久美子

マブから数年来「面白いから!!頼むから読んで!!!」と言われ続けていた漫画。
(私が勧められるのが苦手な人間であることを知っているゆえ「あんまりしつこく言うと読んでくれなくなるかなと思って、途中から言わなくなった」とまで言われて笑ってしまった。すまん…笑)
面白すぎて打ちのめされて心象風景として床に伸びました。なんて面白いんだ。
自分が宝塚を好きになって以降に読んだ、というのはあんまり関係がないレベルでひたすらに楽しい。ただただ青春のきらめき、スポ根的な正統派の「努力友情勝利!」って感じである。

主人公・さらさにつきまとう、抗えない宿命のようなもの、級友や幼馴染との関係性の間に確固たる存在感を持って横たわる「才能」という問題。
わたしは!天才が天才ゆえに背負う孤独が!本当に好きなんだ!!!と読みながら叫びそうになった。

掲載誌が途中で変更になったゆえ、移動前のお話は「1巻」ではなく「シーズンゼロ上下巻」なのでご注意くださいね!
これから読む人はシーズンゼロからどうぞ!

これもKindle Unlimitedでシーズンゼロと3巻あたりかな?まで読めた時期があって、そこから全巻まとめ買いしました。
関係性を描くのがうますぎて天才か!?になってしまった。
運動会の星さまのコマで「ヒッ」と声が出てしまったので、わたしは本当にそういうやつです。



5000字超えてしまってきりがないのでこのあたりで打ち止め!
他に鬼滅の刃一気読みとかもしてるんだけど!
こういうことがやりたいならもっと定期的にまとめるべきだよね~。でも年内に書きたかったので満足しました。
これでも2020年よりは色々読めた。
インプットとしての読書量がものすごく減ってしまったことに危機感があるので、引き続き増やしていきたいな。

むね肉を蒸す

今日は相対的にみて、かなり幸福度の高い一日だった。


なによりもまず、天気がよかった。
朝起きてカーテンを開けると、それはもう見事なまでのすこんと抜けるような青空で、まさに雲ひとつない快晴だった。
南向きの部屋で仕事をしていると、正直日中はやや暑く感じるほどで、今年の11月はやたら暖かいよなぁと改めて不思議になる。いつもはこの時期、もっと寒いはずだよね。
朝に干したタオルはあっという間にからっからに乾いていた。
風がわりと強い日でもあり、ベランダでびゅうと勢いよくハンガーごと煽られるタオルを捕まえて取り込みながら、秋らしく穏やかに乾いた空気の匂いを気持ちよく吸い込む。日の光の眩しさに、猫のように目を細める。

関東の秋冬は、本当にびっくりするほど空気が乾燥しているな。
一昨年、我が家に導入されて以来大活躍の象印の加湿器(※あの、見た目が完全に「湯沸かしポット」の真っ白なアレです)を、今年も数日前からついに稼働させた。
部屋に置いている湿度計が、油断してると40%を当たり前に切っているので驚いてしまう。夏は平気で70%超えてるくせに。
地元の福岡は、冬でも空気がとてもしっとりしている。空気中に水蒸気が含まれていることがはっきりとわかるくらいだ。
上京してから初めて冬に福岡に帰省したとき、飛行機を降りた瞬間に感じたその湿度の違いに、思わずはっとなったことを思い出す。


夜は少しだけ残業をして、そのあと夕飯をつくった。
わたしより先に仕事を終えた旦那さんがご飯は炊いておいてくれたので(土鍋炊きは手間がかかるので最初難色を示されたけど、ぶじ定着したのでニンマリしている)、おかずだけぱぱっと調理する。それはもう適当に。
鶏むね肉とブロッコリーをどうしようかなと考えて、そういえば持っていたな…?と唐突に思い出したルクエをひっぱりだして、レンジで数分蒸してみた。
味付けには白ワインをほんの少しと、キューピーの瓶入りパスタソースを使ったら、思い通りの仕上がりになって満足した。
あとは刻みネギを入れた納豆で、今日のご飯はおしまい。
やっぱりこれくらいならすぐできるんだよな、でも自炊って継続が本当に難しいよなぁ…としみじみ思いながら、とりあえず今日は体に良さそうなものを美味しく食べられたぞ、という達成感でいっぱいになった。


わたしはとにかく「生活」が下手くそなんである。
ついつい、リソースを趣味に全振りしてしまいがちなので、なんでわたしはこんなこともできないんだろう…と落ち込むことが多い。
その分、生活にまつわることがなんだかうまくいったなと思えるときは、それだけで自己肯定感が上がる。
人間らしい活動ができたことに、満ち足りた気持ちになれる。
異常に充実している詰め込みスケジュールを無事走り切った後のこの「凪」のような時間も、それはそれでやっぱり楽しいなと、そういえばいつの間にか思えるようになっていた。


思いの外大きいブロックだった鶏むね肉が半分くらい残ったので、あしたは長ネギ丸ごと一本と一緒に、和風の味付けで蒸してみようかなと思う。


今日は珍しいくらいに、ただの「日記」でした。
書くのも読むのも、日記が好きです。

赤い靴履いてた回遊魚

自分がものごとを取りまわせる範囲というか総量みたいなものを正確に見極めるのが、わたしは本当に苦手です。
純粋な経験値としてそろそろちゃんとわかってもいい歳だと思うのに、未だによくわからない。困ったものだ。
またしても、趣味の話をしています。


趣味に関しての自分の総合的な体力ゲージは、目盛りが度々おかしなことになってしまう…というか、目盛りが状況によって自由に伸び縮みするので、余力の判断が非常に困難になりがちである。
そうして「絶対に無理だと思ったが謎の馬鹿力が湧いてきてしまって、それでなんとかなってしまった」という成功体験を過去に相当数積み重ねてしまった結果、
自分の余力を見誤るケースがここ最近立て続いてしまったので、一度ちょっと落ち着いて見極めねばな…と思うようになった。
しつこいようですが、趣味の話をしています。(仕事にもそのまま適用できそうですが。)


わたしに限らず、おたくは「趣味の無茶苦茶スケジュールをなんとかしてしまった成功体験」を持ってる人が少なからずいるんじゃないだろうか。
これってわかりやすく言うと、やっぱり何かしらの脳内麻薬が出てる状態なんだと思う。

わたしの場合は、
「どうしてもどうしても、もう一度見たい!」「できる限り劇場に通いたい!」と心臓がバクバクするほど恋焦がれるような演目を前にすると、身の内から燃えたぎるマグマのごとく、エネルギーがふつふつと湧き出てきてしまう。
一度そうなると、絶対に掴み取る!という意志のもとに追加分のチケットをいつのまにかなんらかの手段で手元に手繰り寄せてしまうし、
その結果として脱げない赤い靴を履いたまま踊り続けるような気狂いじみた仕事+観劇のスケジュールをねじ伏せるように乗りこなしてしまうことが、往々にしてある。


…いやね、それはそうなんだけどね。そうはいってもですよ。
言ってみればそれは「ハレ」のエネルギーなわけで。
つまりわたしの日常はだいぶ「ハレ」に侵食されているんじゃないかな?とふと思ったのだ。

長いもので、観劇しないといきていけない!と思うようになってから、もう9年目になっていた。
その9年の間、コロナ禍によりそもそもの場と機会を奪われた2020年を除き、私の観劇ペースは流石に右肩上がりとまでは行かないが、「高止まり」を続けている状況にある。
しかもその中で好きなジャンルはどんどんと広がっていく一方なので、正直自分でもちょっと怖い。
更に、そうして観に行くだけならまだしも、わたしは「観劇後に感想をブログに書きたい」という抗いがたい欲求を謎に抱えてしまっているがために、
そこまで含めた"観劇"トータルのタスク量はかなり膨大なものになってしまう。


経験則としてわたしの場合、1万字弱の記事だとおおよそ完成までに最低5時間くらいは必要になる。
一稿目が書き上がるまでだいたい3時間、そこからあれこれと細かな推敲に2時間。
もうすこしライトに5000字くらいで終われる記事なら2.5時間くらいで更新までいけることもあるし、字数自体は大した量ではなくても、まとめるまでにものすごく時間がかかって、最終的に10時間くらい費やす記事もある。

そして文章を書くためには、上記のとおり当然時間が必要だけれど、同じくらい絶対に体力が必要です。

平日は毎日8時間仕事して、更にそこそこ頻繁に残業をし、掃除や洗濯その他の家事もやり、超適当かつたまに自炊もして、土日の片方は何か観劇に行って…みたいな生活の中で、数時間まとまって文章を書く時間を取るの、めちゃくちゃ難しいんですよね。いや、それはそう。どう考えてもそうに決まっている。。
数時間思考を巡らせて言語化をやり続けるって、ものすごくエネルギーを要する行為なので、
時間はあれどパソコンに向かう気力までは残ってない…みたいなことはよくある。
「感想を書きたい!けど疲れすぎてて今は書けない!」という状態になることがここのところ本当に多くて、こんなはずでは…!とひとりで焦ってしまっていた。
感想にも賞味期限があるからなるべく早めに出さないと新鮮さが失われていくし、
感想を取り出す前に更に新しい作品をインプットしてしまうと古い方の情報がうまく頭の中から出てこられなくなったりもする。そのあたりがシビアなので、思うように書けないと、かなり焦ってしまうのだった。


わたしにとっては、それくらいに「観劇する」という行為と「感想を書く」という行為がどうやらかなり不可分なものらしい…とここ最近で改めて実感したので、
もう割り切って書く体力までを見据えて観劇予定を立てるくらいでいいのかもしれない。と思うようになりました。
だいぶなんじゃそりゃ感があるし、人から見れば滑稽なのではとも思えるのですけど、書かずにはいられないなら、もうそうやって捉えて準備しておく方が自分も楽だなぁって。
「そんなに大変なら感想書くのやめればいいじゃん!」も方向性としては勿論あるんですけど、そうはならないようなので、であれば総量のコントロールを考えてもいいのかなと。


今週、現在進行形で自分に無茶スケジュールを強いてしまっているので、来年からはこの教訓を生かして色々と見直そう…と思いました。
ハレのエネルギー量に引っ張られたテンションでいろんなことを押し切るのが妙に得意すぎてここまで来てるけど、
もうちょっと落ち着いてもいいはず、と自分に言い聞かせる。


止まったら死んでしまう回遊魚型おたくであることはもう諦めて受け入れるとしても、せめて泳ぐスピードをもうすこし緩めるなりして、負荷を弱めていこう、
…というか回遊魚なだけでもう十分なので、赤い靴を履くのはやめましょうねと思った日記です。

(赤い靴履いてた回遊魚*1、そんなものがいたら怖すぎてとくに誰にも連れて行かれることはないんじゃなかろうか。足、どっから出てきたんや…)

*1:わかりにくいボケをしてすみませんでした(替え歌でボケた)

vanish!

きっかけの具体的なエピソードは忘れたし、中学生の頃か高校生の頃かも思い出せないけど、vanishという英単語が家庭内で流行ったことがあった。
家庭内、って書いたけどたぶん正確には母と私の間で。

ここにあるはずのものが見つからない、どうして?と誰かがなにかを探している場面に出くわしたとき、横から茶々を入れるようにすこし甲高めの声で「vanish!」と言うのである。(※イメージは教育テレビでやっていたミッフィーのアニメの声で…どういうこと?)
聞いてる方はそれだけで何が面白いんだかさっぱりわからないと思うのだが、本人たちにはなぜだか面白かったのだ。
あくまで他人事っぽい態度というか、勝手に消えて無くなるはずのないものに対して「vanish!」と言う、ある種の無責任さみたいなものが面白かった。そもそも、ものが見つからない原因である「散らかったリビング」を創出している諸悪の根源の過半を占める存在こそが私だったので、自分のふるまいは棚に上げて、他人事ぶっているところにおかしみが生まれる、というような仕組み。
私がおそらく英単語を覚えようとしたタイミングでふと思いついて言ったのを母が面白がって、しばらくのあいだ定番になっていた。今でも言ったら家庭内ギャグのひとつとして通じる気がする。今度やってみようかな。


この「跡形もなく消えて無くなる」というのがわりと好きで、たぶん私にはそこそこ強めのリセット願望がある。

社会人になって今の会社が4社目なのだけど、転職する時に独特の「今まで必死に覚えてきたあれもこれも、ぜーーーんぶ!ぜんぶ忘れていい!」というあの爽快感は、ちょっと病みつきになる。
定期テストが終わったあとの解放感のスペシャル版って感じで、転職によって経験するたびに心底せいせいした。
別に何もかもが嫌になって辞めたわけではなかったけど、あほらしいな〜と感じるような組織内の仕組みも、無駄の権化やろ!と思うような馬鹿げた業務手順も、気を遣ったり遣わなかったりしてきた人間関係もなにもかも、全部!忘れてしまっていい、というのはものすごく魅力的だ。その分自分の脳内の記憶領域をガバッと空けていいのだから。
この自由の強烈さは本当にクラクラするほど眩しくて、特に前職を辞めたあとのそれは、かなりビビットだった。なんせ、不可能な覚えゲーかよ!と叫びたくなるほどに摩訶不思議で複雑怪奇に発達した手続きの中で、日々どうにか息をしている(割に給料の安い)業務内容だったので。

人間関係に対しても割とそんなところがある。本当に特別親しい人をのぞいて、ある期間・ある場所で繋がった人間関係をうまく維持することが昔からできなくて、そこに自分がいた痕跡ごと消して次に行ってしまうような癖があるし、なんだかその場から自分の姿が消えたことに妙にホッとしたりしてしまう。なんでそんな消えたがる?忍びの者か?
でもそんなことを言う割に、辞めた後に前の職場の人と飲みに行く機会は過去全ての職場で複数回設けてもらったので、たぶん周りの人たちが優しいのだと思います(ここまで書いてすこし落ち込みました)。


別に何に気兼ねがあるわけでも無いのだけど、Twitterになにかを書こうとしたとき、「これ別に大勢の人に見られる場所で言う必要、全く無いな…?」みたいな気持ちがふつふつと湧く瞬間が増えて、インターネット上の人格を消してしまいたい衝動に駆られる瞬間が、ここ最近で何度かあった。

と言いつつ、全く同じ行為は過去に一度経験済みなので(数年動かしていた趣味のアカウントをいきなり消してブログも非公開にしたことがある)、実行したらどうなるのかも想像はつくのでもうそれだけで満足しているところがあるんだけど、このリセット願望は一体なんなんだろうな、と思う。
今あるアカウントはまず消さないし、仕事を辞める予定も全く無いのですけど。
「vanish!」というひとことと共に、今あるものを綺麗さっぱり消し去ってしまう夢想は、やっぱりなんともいえずに蠱惑的。


…と、つらつらと書いてみたけど、今の私のこの精神状態はやっぱり、言葉にならない閉塞感に長いこと取り巻かれているからだろうなー、と思う。
物理的には比較的、いやだいぶ自由に身動き取れている方でも、がんじがらめになって何かしらの不安の影を感じ続けている気持ちの側面においては、かなり影響はあるのだろうな。
コロナ禍、まじでいい加減vanishしてくれんかな。