観劇以外

もはやタイトル詐欺のあなぐま(anagmaram)別館。本館→https://anagmaram.hatenablog.com/

PMSが心底厄介だという話

お風呂がたまるまでの間に書く!


PMSは本当に厄介である。

人によると思うのだけど、わたしはこれが主にメンタル面に来るのです…。
体調にも変化は出るんだけど、体より心にホルモンの影響が大暴れしてる感じ。
どうなるかというと、

  • ものすごくイライラする

or

  • ものすごく落ち込む

の2択で、その月によってどっちになるのかわからないし、どっちもすごく厄介。


イライラするときは、例えるなら赤信号になるたびに心の中で舌打ちをするような感覚のしきい値低すぎのイラつきで、大変に危険。
例えば仕事中、何か純粋に質問をされただけの内容を、まるで自分の至らなさを指摘されたように感じてしまったりする。いや、これマジで危険。
いまは仕事が在宅で、基本テキストコミュニケーションでやり取りをしているから、その中でこのイライラを出したりしたら大事故である。
そんなことにならないように、「今お前PMSやぞ、落ち着け?」って必死に心の中で自分に話しかけてから、ひと呼吸おいて返信を打ったりしている。
なんでこんなにイライラするんだろう、疲れるのでやめてほしいな…って思う。マジでこれ、大変に疲れる。


もう片方の落ち込みは、もう訳の分からない落ち込みかたをする。
何をしてても重石がずーんと乗ったように、頭がぼんやりするし心の奥が重たい。
そんなタイミングでも楽しい出来事はまぁちゃんと楽しいのだが、それでもなんというか比喩として、自由を奪われたような感覚で、心の機微がギクシャクとする。
ずっと意識の中に靄がかかったようで、思考がはっきりとしない。
このモードの時に何かアンラッキーなことが起きると、もう信じられないくらい悲しくなる。
支離滅裂な論理で自分のダメさついてなさを呪いたくなり、泣きたい気持ちになるのだが、ここでも再び「いやお前、今PMSやぞ?落ち着け?」って思ってなんとかそれに引っ張られないようにがんばる。難儀。


さらに体調面では、やたら眠いのに寝付きが非常に悪くなる、という、それは一体なんなんだ?嫌がらせか?状態にもなったりする。(むくみやすいとか太るとか肌が荒れるとかの鉄板はもう当然のように別途あります!)
いや、眠いんだから、ちゃんと寝たいんですけど…?って感じなんだけど、眠りという動作に体が全くすっと入っていかないのである。
もともと寝不足が大の苦手なので、落ち込み期に寝不足のかけ算をすることになり、わりとメンタルが悲惨なことに…勘弁してぇぇ!


とまぁ、こんな感じになりがちなんだけど、今はリアルタイムですげー落ち込みにやられていて、本当に厄介だな!!?のひとことです。
薬(ピル)も対処の選択肢としてあることは理解するんだが、日常的にまいにち服薬する別の薬もあるので、そこまでは…しないか…うぅんという気持ちもあって。面倒だね!人類、もう少しうまく進化してほしかった!
同じPMSでも、落ち込みやイライラはそんなにないって人も多いと聞くし、もっと違う方向にしんどい人もいるみたいなので、なんともはや…であります。


でもまだ、理由がわかるだけでだいぶ楽なんですけどね。
大学生の頃に、飲み会に突然死ぬほど行きたくなくなったり、その気分の時に行っても最悪途中で泣いて帰りたくなったりする、定期的にあるこれは一体なんなんだ!?と思って途方に暮れていたときに、このPMSという概念を知って、疑問が氷解した思いだったし、ある意味自分のせいではないのかとわかって、本当に救われた。(自分の体の動きのせい、ではあるわけですけどもね。)
女性ホルモン、もうちょっとうまいこと働いてくれませんかね!?って思う…。
前よりはだいぶ言葉としても広まったし、気づいている人も多いと思うけど、我が身の主にメンタルの様子がなんだか定期的におかしいぞ?の背景に、女性の場合はこれもあり得るので、当てはまる人もいらっしゃるかもと思います。


そして生理痛にはぜひ専用薬をオススメします!

少なくともわたしは、ただの鎮痛剤より、嘘みたいに効きました。ないと生きていけんレベルなので常備してある。
これも効き目は個人差あるような気がするんだけど、薬が効かねぇ〜!って経験がある人には、ぜひ一度試してみていただきたいです。


案の定書き終わるよりお風呂が沸くのが先だったけど、今日はこのあとさっさと寝ます!

いちねん

ばしん、と目の前で扉が閉ざされたような、あぁ、今いっぺん心が死んだなぁ、と思った日から、あしたでちょうど一年になる。*1


一年経って、良い意味で予想に反してなのだけれど、興行がこの世に戻ってきている。それも、だいぶ当たり前の様相をして。
たくましいとか強いとか、そういう楽観的な言葉で片付けてしまうのも違うと思うので…うまく感情を言い表すことはできないけれど、
ただ「日常にごく当たり前にあるもの」として、観劇という選択肢が自分の生活にある事実が、ただただ嬉しい。
当たり前、というと言い過ぎかもしれない、その捉え方は個人差が大きい部分ではある…けれど、上演中の演目が今現在、世の中にはたくさん存在しているのだ。たとえば半年前と比較しても、驚くくらいにたくさん。
タイムラインに、自分が観る予定のないものであっても、複数の舞台作品の感想が賑やかに並んでいる様子だけで、本当に心が浮き立つように嬉しい。


たぶん、興行が強いられたあの受難の季節の出来事は、もう世間からは、ほぼ忘れられている。
一年前にエンタメを目の敵のように叩いた人たちは、自分たちがなにをどう発言したかも、もうなにも覚えていないのだと思う。
その程度の、って言ったらあれだけど、本当にその程度の。それくらいに関わりのない「遠く」から、得体の知れないものへの不安とストレスの捌け口として、エンタメは総体として、一方的に殴られていたんだと思う。

わたしはそのことをたぶんずっと忘れられないし、そしてそれとは関係なく、ただ舞台が観られる時間を、愛しくて幸せに思う。

ウイルスに対して、どういった対策が有効でどんな行動を避けたほうが良いか、ということが具体的に明らかになっただけでも、一年前とは大違いだ。
それでも、本質的にはやはりなにも変わっていない。観客側のリスクについてはとるべき対策がすっかり確立されてきていて、劇場に出かけて帰ってくる範囲内であれば正直ほぼ見あたる不安もない。
でも、舞台上に立つ演者側が背負っているリスクは、なにも変わらない。
遠隔地へ赴くことを取りやめていたり、家庭や仕事の事情によって、思うように劇場に足を運べずにいる人もたくさんいる。
主催や興行に携わる立場の人が、経済的に苦境に追いやられていることもきっと変わってはいない。
だから手放しで喜べることなど、本当はなに一つない。

それなのに、それでも。「幕が上がる」という事実を、どうしようもなく幸せなものに感じてしまう。それだけがどうしても変えられない。嬉しいのだ。


視界にずっと一枚の薄いもやが掛かったような、果てしなくぼんやりとして、生気をどこかに置いてきたように過ごした一年前の春。
まだ総括出来たりはしない。結論も出せない。
だから、一年先の未来である「今」から、一年前の時間を、ただ、思う。

*1:1年前の4月8日に、ミュージカル「エリザベート」の2020年全公演中止の発表があった。

頭痛ソムリエ

突然ですが、わたしには「自分に起きている頭痛が何起因の頭痛なのかわかる」という特技があります。え?これ普通?それとも普通じゃない?
わたしが自分で把握している頭痛パターンは下記のとおりです。

①シンプルに緊張型頭痛

パソコンの見過ぎで肩こり・眼精疲労〜!ってときのいちばんベーシックでわかりやすい頭痛。輪っかでギリギリ頭をしめつけられる系の痛み、もしくはこめかみあたりにゴーンと鋭めの鈍痛(言語矛盾)が来るタイプの痛みに大別される。どっちもひどい時は本当に厄介。
ただ、鎮痛剤で一番簡単に飛ぶのはこの頭痛なので対処はしやすい。しかし残念ながら薬を飲んでも2〜3時間で効き目が切れたりする。
まじめに運動したり体をあっためたりすると、数日後にはけっこうわかりやすく改善する。

②低気圧による頭痛

なんか頭が重いな〜痛いな〜と思って天気の悪さに気づく、みたいなときの頭痛。低気圧、お前のせいか。薬であんまりスッキリ飛ばない代わり、そんなにきついタイプの頭痛でもない。頭重の方が感覚に近い。
あと今より若い頃にかなり悩まされていた起立性低血圧の頭痛も、これとほぼ同じだったな。ジャンルとしては偏頭痛なのかな〜。

③風邪など感染症による頭痛

「あ〜これ風邪だわ〜」ってわかるタイプの頭痛があります。痛みの種類言語化できないけど、この世には風邪の色をした頭痛がある。…ありません!?笑
喉の痛み・全身のだるさ・この風邪頭痛のどれか2つにヒットしたときは引き始め。とにかくソッコー風邪薬で叩くに限る。

④寝不足による頭痛

寝不足だと必ず頭痛くなるんですけど、仲間に出会ったことがない…。ならない!?
「え、みんな寝不足って眠いだけなの?マジで?わたし100%頭痛くなるんだけど!?」と、知った時は衝撃を受けたというか、ずいぶんと損な体質してんな自分、と思った…。
寝不足なので寝たら取れるタイプの頭痛。つまり寝ない限り治らないのが辛いところ。痛みの体感としては②に種類が近い。

⑤お腹の調子が悪いことによる頭痛

「どういうこと?」って思うんだけど、これも稀にある。便秘が本当に酷くなると人間って発熱することがあるんですけど(過去に二度ほど経験済み)、発熱しないまでも、みたいな段階で頭痛が起きることがある。
なんなんですかね…毒素がうまく排出できてないことによる頭痛、みたいなのがあるんですよね…人体の不思議…。痛みのレベルは低いがとらえどころのないモヤモヤした痛み。残念ながらこのパターンの痛みには鎮痛剤がほとんど効かない。


…みたいな感じなんですけど、今は絶賛⑤が辛い!
つまり前提として、お腹の調子が超悪いんです。いてえよ。マジで困る。ついでに頭痛くなるのもほんとやめてくれ!?

腸あたりにいわゆるジャンルとしての持病があるので、おそらくはそいつのせいであり…とわかっていても、病院でも対処療法しかできないので(症状に応じて薬を飲むしかない)、この数週間、割と詰んでいる…。
しっかりしてくれよお腹〜。頭まで痛いのほんと困るよ〜。有給も減っちゃうよ〜。

残念ながら常に体のどこかが痛いのがわりとデフォな人生を送ってきており痛みには慣れてしまってるんだけど、腹痛って気力胆力が削られるのがいちばんしんどいんだよなぁ…。力が漏れ出す感覚がある。困る!
このままいくと無駄に内視鏡の回数が増えてしまいそうなのでそれも嫌だ!
お腹痛くて寝付けないとか、夜寝ててお腹の痛みで飛び起きるとか、普通はないよって旦那さんに言われて「そうなのか…」ってなっている。まぁそりゃそうか。。困ります!

こんな感じでお腹と頭の痛みダブルパンチがあまりにも辛いので、気を紛らわそうと駄文を書いてしまった。はやく健康になりたーい。痛みソムリエしてる場合ちゃう!

川べりにしゃがむ

「大人になるからには、なるべく普通でいなければならない」と、今よりずっと若い頃はかなり強固に自分に対して思い詰めていたふしがあり、今でももしかしたらそれは根っこの方で抜け切ってはいないんだけど、
だとしても、現時点で想定されうる『普通』から、今の自分は割と外れたところに来ているなぁ、と常々思っている。(そういうふうに思う時点で、気にしている部分も少なからずあるのだと思う。)


でもたぶんその方が良かったような気がしていて、それはなんでかというと、いわゆる『普通』と呼ばれるルートのど真ん中を進んだかもしれないわたしは、きっとそれ以外のルートをなにかあり得ない価値観や様式として、切り捨てたり糾弾していたりしかねないな、と感じるからだ。まっとうであることや正義感で無自覚に人を傷つけまくっていそうで、そんな自分を想像するとひやっとする。
自分が当たり前と思う以外の出来事や人の心の有り様も世の中にはわんさかあるんだと知っていられることは、それだけでかくもありがたい。


最近になって、自分と違う意見を読むのって、一周回ってやっぱりすごく面白いことに思えてきた。
前はもっと潔癖というか独りよがりというか、表には出さないまでも、自分と違う意見に出会うと即・攻撃的な感情を抱きがちだったんだけど、今はだいぶそういうこともなくなってきた。それが年齢が上がったことによる変化なのかどうかはわからないんだけど、もしそうならば、やっぱり歳をとるのも悪くないなと思う。


なんで急にそんな話をしたかというと、巷でうわさの明日カノに少し前からハマっており、金曜0時最新話更新直後のコメント欄の熱さまで含めて「本当におもしれ〜!」と思っているからなのでした。
漫画を読んだ直後の感想が熱く叩きつけられるコメント欄には、価値観、立場、考え方、あらゆる側面でバラバラな言葉たちが一気にどわっと流れてゆく。増水した川の流れか?と思うほど速くてごちゃついて雑多なその流れをあっけにとられて眺めていると、自分の個としてのとるに足らなさを正確に感じられる気がして、そこが妙に心地よいというか、ホッとするような感覚になっている。
同じ物語を読んでこれだけ違う感想が湧くんだから、他人同士なんてそんな簡単にわかりあえるわけないよなぁって、なぜか逆に安心してしまうのだった。
この人は自分と登場人物を重ね合わせてキレてるんだろうなとか、いやその発想はなかったわとか、共感できすぎて自分が書いたんかと思った!…などなど、コメントを読んでるととにかく色んな感情が湧く。そして大多数のコメントは作品への感想にちゃんとフォーカスできているので、読んでてそんなに変なもの嫌なものを読んだ感覚にはギリギリならずに、多様性を体験できる場になっていて、なんというか得難い。面白い。
もっと若い頃の自分だったら、自分と違って腹の立つ方向性の意見を見かけたら、腹を立てていたんだろうなと思ったので、妙なところで感慨深くなってしまったのだった。


せっかちゆえ、待てばタダ!系の仕組みがすごく苦手で、最初はムキー!ってなりながら読んだけど、いったい何が起きてるの?ってのが気になる人はKnockin' on Heaven's Doorの始まりから追ってみると良いかもしれないです。おすすめするか?って言われるとまたちょっと違うんだけど、、無料範囲で読み進めて最新話に追いつきたい人は最初から読み出すとおそろしく時間かかってしまうので、途中から読むといいよ…というのを書きたかったのでした。(最初の方は単行本で買えるんだけど、連載中ゆえ最新話近辺はアプリで読むしかないので…!ちなみにわたしは待ちきれずに最終的に数話分課金した。笑)

漫画が手法としても物語としてもシンプルにうますぎて結果面白いので、そうやって人の心をぐいぐい引っ張れる創作ってやっぱり本当にすごいよなぁ、と嘆息したりもしています。


最初の話に戻るんだけれど、
今の自分が世間的に見て普通なのか普通じゃないのかはよくわからないが、少なくとも自分の価値観で積極的に人をぶん殴るようなはた迷惑なことはたぶんやってないように思うので、
そういう年の取り方をできてそうなことは少し自分を褒めたいと思ったという、そんな日記でした。

開けて埋める

これは、とある妖怪ブログ書き魔のお話です。


金曜夜、やりたいことやらなきゃなことが大量にある中、週末にやる予定だったけど頭が仕事モードな今の方が楽かも…と思い、パスワード管理ツールの移行作業をやった。そしたらそれが思ったよりも簡単にできてなんだか嬉しくなり、興が乗った勢いで、
「ものすごく昔に書いていた古代のブログで鍵かけて放置していたやつの移行作業」という謎タスクをいきなりやりました。なぜか。
きっかけは、その古代のブログ(fc2でした)のログインIDが、ドコモのメアドだったためです。
ahamoに移行するか~という一連のあれこれで、ほんとに唐突に、その存在を思い出したんですよ。


パスワードは当たり前のように覚えていないので、再設定してログインして(というかむしろ、IDがドコモのメアドだ!って事実をよく覚えてたと思う)、懐かしすぎる管理画面に動揺して変な汗をかきながら、バックアップ用のデータをDLして、
はてなブログで新しい非公開ブログを立てて、そこにインポートして…って検索したりヘルプ見ながらやってみたんだけど、トータルで1時間もかからなかった。本当にびっくりした。。
…まじかい!こんな簡単だったんかい!!!


この古代のブログとは、わたしが大学2年の終わりから社会人のほんのはじめの頃まで書いていたやつで、
西暦でいうと何年ころなのかは年齢がわかるので書きませんけど(書かなくても当時のムーブメントと照らし合わせるとわかるひとにはわかりますけれど笑)、
なんと585記事ありました。
「…なにその数字!?」って思ったんだけど、日付を見ると、2日にいっぺんくらいの勢いで書いたりしていたようで、なるほどそれならその数になるか…と思った。あ、さすがに単なる日記なので、一記事1000字はいかない日が大半なので安心してください!笑
200記事書いてる年とかあって笑ってしまった。うける。いや怖い。うけるって。…いくらなんでも書き過ぎなのでは!!?


「ネット上での公開など当然恐ろしくてもうできない内容だけど、かといって消すには忍びない…」という気持ちのまま、どうしたらいいかわからずに鍵をかけて、もう何年も触らずにいて存在すら忘れていたやつでしたが、
思いがけなくあっさりと移行された結果、新しいけれど時の止まった、アーカイブ目的のブログとして生まれ変わることになりました。
私だけに見える場所として、ひっそりと息づいています。
いや、非公開なら移行前と状況は別におんなじなのでは?という気もしますが、普段使っているサービスの中のアクセスが容易な場所に移せたのは、やはり全然感覚が違います。
学生時代の自分が書いた文章が、はてなブログのUIで、今の自分が日々つかっているIDにぶらさがって表示されるのは…公開範囲が自分だけとわかっていても、なかなかにスリルがある状況ではありますが。笑


もはや狐につままれたような思いで見慣れない画面をスクロールするけれど、記事は問題なく、完璧に移行されている模様。あっけなさすぎて手品みたいだ。
であれば…と、次に旧ブログの削除に着手。
すると出てくる、「本当に削除しますか?二度ともとには戻せませんよ」のお知らせ。
はい、なんだかどうやら大丈夫っぽいです、と思いつつ、やっぱりちょっとドキドキしながらも、さくっと削除処理を完了。


そのあとに、恐る恐る旧ブログの鍵付き閲覧用URLを叩いてみたら、
きっちりと404エラーが返ってきた。


「お探しのURLは見つかりませんでした。30秒後にトップにリダイレクトします」と告げられた画面を見て、なんかもう、本当に筆舌に尽くしがたい気持ちになった。
消すのって本当に簡単。
何十万字のデータでも、ワンクリックだけで、一瞬で全部、こうしてこの世から消すことができるのだ。
でもとっておこうと思えば、サービスやサーバーがいきなり死んだりしない限りは、如何様にでもなんとかなってしまったりもする。
デジタルデータって、儚いのかしぶといのか、まじでよくわからない。


インターネットって、本当に面白いなぁ。。
この数時間の体験、もう「面白い」って感想しか湧いてこなかったんです。なんなんだろうこの感覚。
タイムカプセルを掘り出して、開けてひとり「ほほぉー!」と眺め、また丁寧に土の中に埋め戻した、みたいな時間でした。


ふつう、そんな昔に書いたものなんて、まずお前よく読めるよな?と思いますよね。むしろなんで取っておくんだ、今すぐ捨てろ!って言われそうな気がします。笑
でもなんか、そういう意味では平気だったんですよ。あまりにも、今の自分との隔たりが大きいからかも。もともと、書いたそばから人格と文章を切り離す感覚があるせいかもしれないんですが。

深夜にひとり、昔の自分が書いたものを読んでいたら、文章の巧拙に思うこととか懐かしさとか恥ずかしさとか、感じることは勿論いろいろあるんですが、
なんかもはや到底説明しがたい「感慨のかたまり」みたいな巨大なものが、とにかく手元に残ってしまった…ので、こうしてつい、またブログを書いてしまいました。ひとり永久機関になっている。妖怪である。


書き残すことって、その時の自分にとって必要なだけじゃなく、やっぱり「将来の自分」へのなにがしかの贈り物なのかなぁって気がしました。
別に何の役にも立たないからこそ、貴重で愛おしいことのように思える。


文章を書くのも読むのも、やっぱりわたしは一生好きなんだろうな。なんでなのかはそれもまた、一生わからないけど…。

人柄って、滲むよね

また趣味の話を書きます。ブログを使い分ける意味とは???



この間の週末に、ものすごく久しぶりに、いわゆる「俳優のファンが出かけていくイベント」らしいイベントがあった。(推しのAbemaの冠番組のファンミーティングがありました)
ゲストに招いた気心の知れた俳優仲間と、和気あいあいとトークを繰り広げる推しをたっぷり堪能して、はぁとにかく楽しかったなー!と満足度100%でニコニコ笑顔で帰宅したんだけれど、
この気持ちの楽さ加減というか、ファンをやっているうえでしんどさが全くないのはなんでなのかなぁ…みたいなことをぼんやりと家で考えていて、またひとつ気づいたことがあった。


なんというか、応援している人の「発言」に、いち観客として傷つくことが、まずないのだ。
今のはどうなのかな…みたく、ヒヤッとしたりすることも全くない。
例えばだけど、イベントで盛り上がりすぎて少し言葉遣いが乱暴になったな、というような時も、それが後輩であろうが誰であろうが「ごめん、〜って言っちゃったね」等のフォローをその場ですぐに入れるし、
そもそも発言する時に、世の中にはいろんな立場の人がいる、ということがあらかじめ十分に考えられてから言葉が選ばれていることが伝わる。それがまずすごい。
ものすごく固い言い方をすれば、ポリティカルコレクトネス、にとても配慮がなされている発言なのである。
ご本人はいわゆる男らしくいることに美学を感じるタイプだし、それを踏まえてどう行動したいかを決めている部分はきっとあるのだけど、
そういう性別に立脚した特徴としての「らしさ」を大事にしたとて、それ以外のものを否定したり傷つけたりするとはやはり限らないよな、と、なんだかホッとするような思いにもなる。
(というか、推しの人はポリコレという言葉を認識していない可能性の方が高いんじゃないかと思う。たぶん。わかんないけど。)


これはわたしが勝手に感じていることなんだけれど、推しの人のその態度、いわゆるattitudeは、
「自分は表に出ている人間なのだから」という自覚や責任感だけによるものじゃなくて(勿論そこのプロ意識はもちろんすごくあるお方だけど)、
もっと素朴な「人としてこうありたいな」というような、ベースにあるなにかに端を発しているような気がする。
「人を嫌な気持ちにさせることはなるべくならしたくないよね」って、ごくシンプルに思っている結果であるというか、なんというか。


ざっくりいうと、とにかく「人柄が良い」ということにまとめられるような気がするんだけど、
SNS/リアルいずれでも発言にハラハラすることがなく、ただ安心して話を聞いていられるのって、
それだけでもファンにとっては、応援を続けられるか否かのものすごく重要な要素になるように思うので、
この点、本当に得難い推しであられることよ…としみじみと感じ入った。


見えているものが全てでは無い、というのが当たり前である前提のもとに、ではあるのだけど、
でもその見える範囲で安心していられるのって、こちらにとってはすごく大事なことだと思います。

わたしはあくまでも、人前に立つ仕事を選んだ上で、その仕事の範疇に限ってこちらに見せられているものがファンとして受け取れる全てだし、見えない部分は見る必要はないと常々思っているのですが、
少なくともその範疇において心配ごとが一切浮かぶことなく、ただ「楽しいなーありがたいなー」とニコニコしていられるのは、ものすごく幸せなことなんじゃないだろうか。


だからこそ、わたしたちに見えない部分でも、とにかく「幸あれ!」と思うのでした。
ご本人にとっての人生が、楽しくて充実したものであっていてくれたらな、と思う。



人柄って、いろんなところに滲むよね、と思ったという日記でした。どうせ滲ませるなら、魅力的なものであってほしいし、かくなるうえは己もそうありたい。(最後だけ突然の武士み)

舌をしまう(へびのきもち)

運動不足と戦っているつもり…という割には継続力が全くないので、それは嘘だった。でもとにかく、あまりにも体を動かせていないので、危機感だけはいっちょまえにある。
年末に旦那さんが買ったエアロバイクをがんばってアニメ1本ぶん見ながら漕いだりしているのだけど、とにかく続けないことには意味がないのだろうな…。エアロバイクは「何かを見ながら運動できる」ことが最大の利点だな!と見るものが多いオタクは喜んでいるのだけど、でもこれだと太ももだけが異様に鍛えられてしまうのでは?とも思う。心肺機能の増強には効果がありそうだけど。
脚ばっかり動かしてちゃ肩こりはよくならないよなと、金曜日に調子に乗って久しぶりにフィットボクシングをしたら、この土日は笑えるくらいの筋肉痛に襲われている。衰えは怖い。
やたらと運動手段だけは充実しつつある我が家、反省してまじめに運動します。いろいろ選べると気分転換にもなるかもしれないし。


以下はぜんぜん別の話。
特に伝えなくてもいいかもしれない内容を、義務はいっさいない言葉を、それでも誰かのために敢えて選んで使えるとしたら、それは本当に尊いことだなぁと思う出来事があった。
言った本人にとってはそこまで気負ったものでなくても、受け取る側にとってはなにか肩の荷を下ろすかのように驚くほどに楽になれる、そんな言葉やシチュエーションも、やっぱりこの世にはある。

その反対に、何の気無しに放った言葉が、誰かをどうしようもなく傷つけることもある。

前者を過不足なくできる人間になれたらと思うけど、書いてて正直できる気はしなくて、
じゃあせめて、後者を狙ってすることだけはないようにしていたい。
事故は100%防げないかもしれないけど、誰かを悲しませたり傷つけたりするために言葉を使いたくないなと、当たり前のこととして思う。というかうーん。そんなことをしたいと思う状況がやっぱり全然思いつかないんだよな。おめでたいのかな。おめでたいんだろうな。

言ったことは取り消せない。仮に発言した側が反省したとしても、忘れてもらえるとは限らない。
わたしは怒りが持続しないタイプだけれど(怒り続けるのが面倒になるので)、ごく稀にへびのようにしつこく覚えている物事もある。ちろちろ。スパンで言うと5年にいっかいくらい、そういう出来事も起こります。


なんでそういう衝突が起きてしまうのかって、それはもう違う人間どうし、他人の感情を理解しきることなんて到底無理だから…に尽きるのだと思う。
でも、その立場の違いからくる世界の見え方、その異なりようで起きる全てを「仕方のないこと」と片付けるのは…なんだか諦めが先に立ちすぎているようで違和感があって、
じゃあどうするの?いったい何ができるの?…とも思うんだけど。今の環境は余計にそれを感じざるを得なくて難しい。
「立場の違い」が、個々の事情が大きすぎて、絶対に誰も傷つけないなんてできないな、と思う。
だからとにかく常日頃、使う言葉に気をつけて過ごしていくしかないな、と思った。
また、そうして気をつけすぎて勝手に息苦しくなりすぎないようにもしたいな、と。


ひとつおもうのは、狙って傷つけようとして、一方的に懲らしめてやろうとして、そんなふうに使われた(かもしれない)言葉について、まじめに傷ついてやる義理なんてないのです。
心の中でつい真っ赤な舌をちらつかせても、それを抱えることに飽きて草むらにするりと戻っていけるのなら、そのほうがいいのかもしれない。と思う。
反対に、明るいものをもらったときには、ただまっすぐな感謝だけを残していけたらなと思う。